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文化科学研究科修士課程の研究、研究室、著書、教育プログラムなどを紹介するページです
| 第1回 澤田 和彦 教授 「白系ロシア人の足跡を求めて」 第2回 牧 陽一 准教授 「黄鋭(ホアン・ロェイ1952-)のこと」 第3回 塚本 嘉壽 教授 「造語症」 第4回 高久 健二 准教授 「埋蔵文化資料室企画展から」 第5回 伊藤 博明 教授 「ルネサンス思想と芸術」 近著紹介 第6回 岡崎 勝世 教授 「思想史的史学史へ」 |
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分析形而上学とフォーマル・オントロジー 加地 大介(現代哲学) 形而上学への身近な入り口 私は、一般に「分析哲学」と呼ばれるタイプの(主に英語圏で普及している)現代哲学で採用されている種々の方法論を用いながら、 このように述べるといかにも大仰な話に聞こえますが、その入り口は私たちの身近なところに溢れています。例えば、タイムトラベル物語を観たり読んだりしながら「タイムトラベルは本当に可能なのか」と問うてみたり、鏡台の前に座りながら「鏡はなぜ左右だけ反転させて上下は反転させないのか」ということを考えてみることは、「時間とは何か」「空間とは何か」という形而上学的大問題について考察する非常に良いきっかけとなります。 私はそのような形で形而上学の領域へと読者を導くことを、『なぜ私たちは過去へ行けないのか:ほんとうの哲学入門』(哲学書房)という著書で試みました。その内容は、教養学部で行っている哲学の入門的授業に基づいたものです。 フィロソフィカル・シティ:ニューヨーク さて、私はいま、文部科学省のプログラム「海外先進研究実践支援」の助成を受けて、ニューヨーク大学(NYU)の哲学科に滞在しています。NYUの哲学科には、分析哲学の世界におけるスーパースターたちが多数所属しており、その研究水準の高さは全米一あるいは世界一とも言われています。そうした哲学科をNYUは色々な形で優先的にバックアップしており、例えばその建物ひとつを取っても、スティーブン・ホールという世界的に有名な建築家によって内装をデザインされた、とても洗練された空間の中にセミナー室や研究室が配されています。名は体を表すと言うべきか、「ホール」は、「穴」と光の現象的特性を活用する哲学的建築家として知られており、哲学科の内装もウィトゲンシュタインという哲学者の色彩論をモチーフにしているそうで、無数の不定形の穴があいた白い壁に豊富な内外光が多様に絡み合うようなデザインとなっています。 ニューヨーク市内には、他にもニューヨーク市立大学とコロンビア大学の優れた哲学科があり、全米や英国の各地から刺激的な研究者を招いて各哲学科で頻繁に開催されるワークショップ、コロキアム、公開レクチャーや各自のセミナーなどに研究者、学生たちが比較的自由に相互参加しながら、高度な議論を交わしています。意外かもしれませんが、色々な分野で時代の最先端を行くマンハッタンというアーバン・シティは、街の各所で濃密な哲学的交流が日夜繰り広げられている、最高のフィロソフィカル・シティでもあるのです。
穴と境界 最後に、「穴」つながりで、私の新著『穴と境界:存在論的探究』を紹介します。 ![]()
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古書店歴史学 一ノ瀬 俊也(日本近現代史) 昔は「安楽椅子人類学」というのがあって、現地調査になんか行くことなく、自室で安楽椅子にふんぞり返って他人様の著作を元に研究をしていた学者がいたそうです。 その伝でいくと、私がこれまでやってきたことは、古本屋を回って史料を探す「古書店歴史学」というものになってしまうのかもしれません。近年、先達が「最近の若い者は現場(この場合は農村など)に潜って史料と格闘するということをしない」と嘆かれるのは、たぶん私のような者のことを言っておられるのだと思います。それどころか最近では古書店街を二本の足で歩くことすらなくなり、ネットで古書を注文しては満足するという堕落した状態になってしまっています。何とかしたいのですがどうにもなりません。
とはいえ、「古書店歴史学」もあながち捨てたものではありません。私は最近『旅順と南京』(文春新書、2007年)を書きましたが、この本は日清戦争に従軍した第一師団(東京)の上等兵と軍夫(輸送のため軍に雇われた人夫)の二人の日記、およびその分析からなっています。いずれも数年前に古書店で購入したものです。なぜこの二人の日記が貴重かというと、二人とも1894(明治27)年に日本軍が遼東半島旅順で引き起こした、いわゆる「旅順虐殺事件」の当事者であり、その様子を日記に詳しく書いているからです。 内容はぜひ同書を買って確かめていただきたいのですが(すみません)、書いていく中で感じたのは、人間というものは実に簡単に人殺しができる、もしくはそれに慣れることができるものだなあ、ということです。この意味で、戦争は決してわれわれにも人ごとではないかもしれません。(平成19年12月6日寄稿) |
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アメリカ南部都市の政治文化 宮田 伊知郎(アメリカ研究)
MARTA−違いを超える電車・バス ジョージア州アトランタのハーツフィールド・ジャクソン国際空港に到着したと仮定しましょう。車なしでアトランタをまわろうとするには、どうすれば良いでしょうか。 MARTAは、路線図上では何の変哲もないただの「線」ですが、乗車をすればそこから人々の生活を感じることができます。たとえば、車窓から見える風景は空港から都心へ、そして郊外へと向かうにつれて変わっていきます。空港から都心へ向かう途中では、片道5車線はあるだろう高速道路、工場や倉庫、荒れ果てたアパートメントや住宅、そして広大な駐車場が目につきます。しかし、都心から(しばらく地下路線を通過し)北へと向かうにつれ、森のなかからそびえ立つオフィスビルが中心的な風景へと変わっていきます。 高速道路に遭遇するのは相変わらずですが、ハナミズキや松の影に隠れているのは、ショッピング・モールやコンドミニアム、そして一戸建ての住宅です。駅によって乗車してくる人々の顔ぶれも変わります。アフリカ系アメリカ人や、南米系の人々、そして白人たち。駅に貼り出されている広告の人物の人種さえ、駅ごとに異なることも観察できます。英語だけでなく、スペイン語、中国語、そしてフランス語など、耳に飛び込んでくる言語も様々です。
MARTA形成史から見るアトランタの政治文化−人種・階級・ジェンダー関係の変遷を中心に−
私の研究の対象は、この人種の、街並みの、そして風景の違いを超え、アトランタを(文字通り)縦横に駆けるMARTAです。なぜ、どのようにこうした大規模な公共交通網が整えられたのか、だれがこの交通網を立案、計画し、だれの指示によってどのように実行に移されたのか、そして、それがいかにアトランタに住む人々の生活を変えたのか調べることを通して、公民権運動以後のアトランタの人種間関係や階級を異にする人々の関係がどのように変化したのか、そして、こうした変化が、公民権運動以後のアメリカ南部サンベルト地域の政治文化をいかに象徴していたのか調べています。 連邦政府から予算を勝ちとろうとする政治家や、路線を計画する都市計画家・エンジニア、駅の配置や安価な運賃設定を求めたアフリカ系アメリカ人労働者階級、あるいは「よそ者」が自分の近隣に侵入すると訴えMARTAに反対した郊外住民などが、重要な登場人物です。 これまでの私の研究では、たとえば、つぎのようなことがわかってきました。裕福な白人は、税金の増額や「よそ者」(貧しい人々や黒人)が移動することを嫌いMARTAの設立に反対したことが強調されてきました。しかし、都心に近い高級住宅地の白人住民は、MARTA推進派の強力な一翼を担っていました。既婚女性が多く参加したその運動のおもな目的は、かれらの近隣の一部を貫くことを計画していた高速道路建設の阻止でした。公共の電車があるからわざわざ高速道路はいらないというかれらの議論は、MARTAの設立により結果的に受け入れられます。高速道路の建設は、それまで貧しい人々(その多くが黒人)の、多くの家々をブルドーザーの餌食にしてきましたが、高級住宅地はそれから逃れることができたのです。皮肉にも、その近隣に駅が建てられることはありませんでした。 現地の人との度重なる会話や、さまざまな公文書館・図書館等で発掘してきた史料が伝えてくれるのは、アトランタにおけるこうした複雑な人種・階級・ジェンダー関係の様相です。さらに多くを皆様とシェアできる日を楽しみにしています。 図3 南部農村にしっかりと根をおろしている福音主義。アメリカ南部社会において、宗教の果たす社会的・文化的役割は、大きい。これも南部史・社会史における大事なテーマである。(写真 宮田)
大学院での目標 ジョージア州アトランタを研究のフィールドとしていることからもおわかりのように、私の専門分野はアメリカ研究です。そのなかでもアメリカ史、とりわけ都市史、環境史、都市地理学、そしてアメリカ南部史を専門的に学んできました(たとえば、写真に挙げられているようなことも)。アメリカ研究の蓄積は、膨大です。大学院のクラス(特に前期)では、自分の専門領域にとどまらず、アメリカ研究・アメリカ史にかかわるより多くのアプローチについて学び、そしてより多くの歴史的な事象について分析できる能力をつけることを目標としています。 たとえば19世紀終わりのアメリカ南部における農民運動を研究している人も、(たとえば)独立革命についての最新の論文を読み、それについて議論できるようになることを期待します。このことを通して、アメリカという国の社会、文化、そして歴史について、より柔軟に分析でき、またそれについて教える能力を得ることが可能になると考えています。こうした試みから最も多くを学んでいるのは、実は私なのかもしれません。 最新の論文は『個人と国家のあいだ<家族・団体・運動>』ミネルバ書房(2007年)に所収
(平成19年12月5日寄稿)
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複雑システム理論による国際政治分析 草野 大希(国際政治学)
国際政治学諸理論の関係づけと体系づけ 第二次世界大戦後にアメリカを中心に発展してきた国際政治学では、国際政治を分析するための様々な理論が提起されてきました。今日では、ネオリアリズム、ネオリベラリズム、コンストラクティビズムと呼ばれる理論が現代国際政治学の主要理論と見做されています。ネオリアリズムは、国家利益や国家間の力関係に着目し、国際政治を対立的な世界として捉えます。ネオリベラリズムは、国際制度による共通利益の実現過程に着目し、国家間協調の側面を捉えます。コンストラクティビズムは、国際政治に働く規範や間主観的了解といった理念的要素に着目し、国際政治が単なる物質的要素(軍事・経済力)の反映ではないことを力説します。 従来の見方では、これらの理論は相互対立的なものであり、それらの間の“没交渉性”が強調される傾向にありました。これに対して私の研究では、これら三つの理論には国際政治を分析する上での不可欠な要素が組み込まれており、国際政治学の生産的な発展のためには、これらの理論を相互に関係づけ、体系化することが必要なのではないか、ということを提起しました。
複雑システム理論とは? そこで「鍵」となるのが、日本の国際法社会学者の廣瀬和子によって構築された複雑シ 結果として、三つの国際政治学理論は、複雑システムを構成する利害システム(⇔ネオリアリズム)、役割システム(⇔ネオリベラリズム)、シンボル・システム(⇔コンストラクティビズム)の論理に規定された国際政治を理論化するものとして特徴づけられ、ゆえに三つの理論は「相互補完的」に関係づけられることを解明しました。これを通して、国際政治学とは接点がないと思われてきた国際法社会学理論が、それぞれ独自の存在意義と要素をもつ三つの国際政治学理論を総合化するモデルを提供しうることを理論的に明示したのです。 廣瀬和子著 『国際法社会学の理論 複雑システムとしての国際関係』(東京大学出版会1998年)表紙はカリフォルニア生まれの女流版画家アイネス・ジョンストン(1920?)の銅版画「ビザンチウムへ船出して」。イェーツの同名詩から着想、1970年代に制作された。この版画には、相対立するものの共存がある。抽象性と具象性、単純さと複雑さ。相互に連関する存在を、一つの順序で書き下ろさなければならなかった著者の苦労をふき飛ばすような、visualな象徴がここにある。止まっているけれど、動いているような、静かなような、うるさいような。あらゆる境界を越え訴えかける芸術作品に感謝。(表紙解説から)
20世紀初頭の西半球におけるアメリカの介入政策と秩序形成 上記した理論分析の結果は、20世紀初頭の西半球地域におけるアメリカの介入政策という具体的な国際政治事例の分析に繋がってゆきます。
アメリカによる介入を示した中米・カリブ海地域の地図 Walter, LaFeber. Inevitable Revolutions : The United States in Central America. W.W.Norton & Company. New York.(1993)
第一に、アメリカの介入政策には、経済・安保上の「国家利益」のみならず、被介入国の内政・財政の安定という二国間の共通利益や欧州による西半球への介入を防止するという地域の集合利益(「国際システムの利益」)を実現する面もあり、これらの利益追求はアメリカの介入に正当性を付与する二国間条約やモンロー主義という「理念(的要素)」の媒介によって制御されていたこと(第一仮説)。第二に、不介入を基調とする善隣政策は、アメリカの「国家利益」それ自身というよりも、第一次大戦後にラテンアメリカから積極的に提示された新しい西半球地域の秩序構想や多国間条約(モンテビデオ条約)といった新しい「国際システムの利益」と「理念」の影響を強く受けた政策であったこと(第二仮説)、です。 論文収録論集 Davis, Michael C., et al.(eds.).International Intervention in the Post-Cold War World : Moral Responsibility and Power Politics. M.E. Sharpe. New York.(2003)
国際政治学における介入研究は、1990年代に国際社会がソマリアや旧ユーゴスラビアなどに対して行った所謂「人道的介入」によって触発されました。実際、私自身、2001年には人道的介入における「規範」と「政治」の相互作用を分析した論文(“Humanitarian Intervention: The Interplay of Norms and Politics”)を執筆しています(刊行は2003年)。 しかし、既存研究では、冷戦後も主たる介入国であり続けるアメリカの介入主義の淵源を探る研究は不十分であり(つまり、分析対象は冷戦後の人道的介入に限られる)、また、介入という事例を国際政治学理論の文脈に位置づけて考察する研究もそれほど多くはありません。その意味で、複雑システムの観点から20世紀初頭の西半球におけるアメリカの介入政策を考察した私の研究は、それなりに独自の視点を提供するものではないかと考えています。現在、私の博士論文を中心としたこの研究を著書として出版するための準備を進めているところです。早く皆様にお見せし、皆様から忌憚のないご意見を頂ける日が来ることを願って止みません。
(平成19年11月27日寄稿)
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出土文字資料から見た中国古代帝国 籾山 明(東洋史学)
簡牘について
この20年来、私が研究の対象として来たのは、中国古代人がのこした文書です。 文書といっても紙に書かれたものではありません。2千年前の中国では(もちろん他の地域にも)紙がまだ普及していなかったので、物を書き付けるには木や竹や絹が用いられました。絹は当時も高価でしたから、日常的に使用するのは木や竹の札でした。中国史研究者はこれを簡牘(かんとく)と総称しています。一般的には竹簡・木簡と呼ばれます。 そのような簡牘が中国では大量に発掘されています。出土する地域は、現在の行政区分でいうと、甘粛省や内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区など西北の乾燥地帯と、湖北省や湖南省など長江流域の湿潤地帯とに大別されます。前者の地域ではカラカラに乾いた木簡が、辺境の護りを固めた砦や烽火台から出土しました。一方、後者の地域では、墓の中から簡牘が地下水に漬かった状態で発掘されています。資料が干物や漬物になったおかげで、我々は2千年も前の文書の実物を眼にすることができるわけです。
簡牘の例 居延漢簡『駒罷労病死册書』前半 著書(左上)口絵頁から(中国・甘粛省考研究所所蔵)
こうした出土文字資料の中には、思想家の著作や文学作品なども含まれますが、役人の日常業務や訴訟記録などを記したナマの文書も少なくありません。それも中央の皇帝や高級官僚から遠く離れた、辺境の烽火台や行政機構の末端で作られた文書や記録が大半を占めています。したがって、文書を読み解くことにより、秦や漢といった古代帝国を末端から眺めることが可能になります。帝国を下支えした人々が書き残したメッセージに耳を傾けながら、歴史を組み立てて行くこと。それが簡牘研究の醍醐味だと言えるでしょう。
中国古代帝国像へ 関連する著作としては、砦や烽火台から発掘された木簡を紹介しつつ、漢代の辺境に生きた人々の生活を復元した一般向けの新書(『漢帝国と辺境社会−長城の風景』中公新書 1999年)と、湖北省の墓から出土した竹簡を分析し、秦漢時代の訴訟と刑罰について解明した論文集(『中国古代訴訟制度の研究』京都大学出版会 2006年)とを、これまでに刊行しました。どちらも第一に心がけたのは資料の丁寧な読解ですが(メッセージを読み取り損ねては元も子もありません)、それにとどまらず中国古代帝国像への新たな提言も含んでいます。
簡牘資料は絶えず出土し続けるので、私の研究に終わりはありません。数年前には、湖南省西部の山あいの町で秦代の木簡が大量に発掘されました。内容は当時の行政文書で、墓ではなく井戸の遺構から出土しました。その出土地、湘西土家族苗族自治州の龍山県里耶鎮という所で、この秋に学会を開くとの案内があり、目下その報告原稿を書いているところです。始皇帝を頂点にいただく帝国を末端から眺めた時、どのような世界が見えてくるのか。これはなかなか面白いテーマなのですが、お話はまた別の機会に。(平成19年9月18日寄稿)
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畸人・十市遠忠にとりつかれて 武井 和人(古典籍学)
(1)常見華
![]() 發端
大學院生の頃から何となく氣になつてゐた武家歌人に、十市遠忠(1497〜 1545)がゐます。大和の國人で、興福寺や春日大社に被官としてもつかへ、今でいふと天理 市、その東にある龍王山の山頂に居城を構へてゐた豪族です。いま、「畸人」と冠しまして 置きましたが、その所以は至つて単純、遠忠の常軌を逸したともいふべき和歌への執着(妄執 といつた方がより適切かもしれません)が著聞してゐるからです。
遠忠は、今までの研究で知られる限り、20代半ばの大永年間(1521〜28)か ら、晩年近くの天文10年(1541)あたりまで、毎年、1年1冊づつ詠草を作り上げてゐます。 かくまで律儀に詠作・著述を續けた歌人なんて、古代・中世に歌人多しといへども、まあ 類例は見出し難いでせう。そして、さらに研究者魂を魅了すること、それは、その詠草(及 び歌稿・歌合といつた詠草を取り巻く諸作品)の大半が、遠忠の自筆資料として、現在に 至るまで傳存してゐることです。加ふるに、それらの詠草等には、富小路資直・三條西 實隆・三條西公條といつた當代を代表する歌人たちの書入れ・添削(大半は、遠忠の依頼に よるものと思はれます)が、それこそ目が痛くなる位の小さな字でこまごまと存してゐ て、それはあたかも、研究者の讀みの力量を試さんと挑發してゐるが如くに感じられます。
(2)乃尋花 (3)暮春
![]() ![]() 嵌まる 數年前、國文學研究資料館、日本學術振興會、三菱財團等より研究助成を得 ることが出來ましたので、何人かの研究者と共同研究を始め、遠忠に關聯する資料の悉皆 調査を續けて來てゐます。現時點で大凡の調査は完了しましたが、いまだし得てゐないも のもあり、まだ暫く調査を續けることになりさうです。この過程で、遠忠自筆の短册をい くつか入手することが出來(畫像參照)、その僥倖に感謝したものです。さうかうしてゐる 内に、すつかり、遠忠にしてやられてしまつてゐることに気付きました。調べれば調べる ほど資料は謎を呼び、研究者としてはつひつひそれらを解決したくなる。また遠忠の詠歌 も、確かにいはれるやうにそんなにはうまくはない−有體にいつてしまへば所詮素人歌人 の背伸び−といふべきですが、遠忠研究者としてのそれなりの年季なのでせう、一讀ただ ちに遠忠なりの精一杯の精進の痕跡が透けて見えるやうになつて來て、それら決して上出 來とはいへない歌歌がかへつていとほしく、また何より、面白い。などといふが如く、い までは、遠忠オタクを公言して憚らぬ程になつてしまつてゐます。 夢 出版したところで何部も賣れるはずもないでせうから、どのみち夢でしかあ りませんが、出來れば、《校本十市遠忠全歌集》を出してあげたい、と念じてゐます。そ の基本資料は、あらかた、写真版として我が家の書棚にあるのです…… (平成19年7月27日寄稿) 【釈文】 |
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| 第6回 | 岡崎 勝世 教授(文化科学研究科文化構造研究) ドイツ啓蒙主義歴史学と最近の研究 |
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思想史的史学史へ 岡崎 勝世(西洋史学) 思想史的史学史へ ベルリンの壁が崩壊した1989年末当時、私はミュンヘンにいました。それは私が派遣されていた「長期研修」が半ばに達した頃で、ドイツが大きくかわっていく様子を、新聞やテレビ、街頭での様々な出来事からつぶさに目撃しました。とはいえ、このように日々ドイツの激動を目の当たりにしながら、しかし他方では、歴史学者の著作を中心に、18世紀ドイツ啓蒙主義者たちの著作に没頭する毎日を送っていました。
この時以来現在まで、私は「ドイツ啓蒙主義歴史学研究」をテーマとしてきました。250年前から約1世紀間営まれたドイツにおける歴史学に関する研究ということになりますから、このテーマを聞かれた方には、何か浮世離れしているというふうに受け止められるかもしれません。しかし、彼らが活動した18世紀後半から19世紀前半は、自然科学の発展と啓蒙主義の影響が背景にあり、さらにイギリスの産業革命とフランス革命の影響が直接及んできて、ドイツが様々な変革を迫られていた時代でした。 そうしたなかで歴史学者たちが時代の課題を受け止めながら歴史学を大きく変革していった過程の研究は、私には決して他人事ではありませんでした。それは急速に変化する現代における歴史学の役割という問題に深いところで通じていますし、しかも私が滞在していた当時のドイツは、まさにこの問題を日々考えざるを得ない状況だったからです。 私は、元来、思想史への関心から歴史学研究に携わるようになりました。ドイツに研修に行く頃にはそこから史学史に関心が移りつつあった頃でしたが、この経験から、私の研究内容と研究方法が定まってきたと、今は、考えています。 この時から歴史学の変化・発展について、歴史学内部の動きよりは、これを歴史学とそれを取り巻く時代との関係の側から調べることに、また、具体的にはこの関係が最も大規模な形であらわれる、世界史記述の研究に重点を置くようになりました。そしてその世界史記述については、それをとりまく、時代に特徴的な「世界観(空間的意味での)」、「人間観」、「時間の観念」という、三つの側面から分析するという方法を、意識的に採るようになりました。そしてこうした研究を勝手に思想史的史学史研究と名づけ、この考えに基づいて計画を立て、以前からの研究をまとめなおすとともに、新たな研究を始めました。
これまでとこれから
この計画のうえで、現在までに発表できた著書は、三冊になります。まず『キリスト教的世界史から科学的世界史へ−ドイツ啓蒙主義歴史学研究−』(勁草書房 2000年)は、私の中心的テーマに関する研究をまとめたものです。ゲッティンゲン大学で歴史学教授をつとめたガッテラー、シュレーツァーは、いずれも最初は伝統的・キリスト教的世界史(普遍史)から出発しています。 しかしやがてこれを批判するようになり、文化史的世界史(啓蒙主義的世界史)を記述するようになります。この転換の原因や転換の過程、その世界史記述の意味などについて、先ほど挙げた三つの側面との関係に注目しながら明らかにしようと努めました。他方、『聖書VS.世界史』(講談社現代新書 1996年)は、彼らが出発点で所属していた聖書を直接的基盤とするキリスト教的世界史(普遍史)について、それが成立した古代から、中世、宗教改革時代におけるその展開や大航海時代以後に迎えた危機を経て、ついに18世紀に消滅するまでの歴史を記述したものです。
現在は、二つの方面で研究を進めています。一つは、ドイツ啓蒙主義歴史学の研究を一層推進することです。ここでは、まだまだ究明すべき課題がたくさん残っています。そのうち、現在は「人間観」の変化と歴史学の変化との関係について深める作業を行っています。 「リンネの人間論」(『埼玉大学紀要 教養学部 第41巻』、2006年)はその一端です。もう一つは、日本における世界史教育の歴史を明らかにするということです。上記の二冊の新書では、そこで扱っているテーマとかかわる限りで、日本における世界史教育について調べて書いてみました。しかしこの調査の過程で驚いたことは、これまで、「世界史教育」という観点からの、明治期から現在までの歩みを通観する研究が見られないということでした。 そこで、これまでのヨーロッパの史学史研究を下敷きにしながら、この空白を私なりに埋めてみたいと考えるようになりました。基本資料の探索という全くの初歩から始めなければならなかったので、予測したより時間がかかっています。もう少し細部に関し詰めなくてはならない部分がありますが、しかし、まもなく結果を公表できるだろうと考えています。 この間、その時々の研究内容を、学部の特殊講義や大学院での講義などに組み込んで学生・院生の皆さんに話してきました。こうした機会がなかったら、とても研究をまとめることはできなかったでしょう。私の場合、著書は、講義という活動の結果以外の何ものでもないと言えます。私の拙い講義を辛抱強く聴いてくださった学生・院生の皆さんに、この意味で、心から感謝しています。 (平成19年7月23日寄稿) |
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| 第5回 | 伊藤 博明 教授(文化科学研究科文化環境研究) ルネサンス思想と芸術 研究の現在 近著紹介 |
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ルネサンス思想と芸術 伊藤 博明(芸術学)
私が主として研究している対象は、ヨーロッパのルネサンスからバロックにかけての思想と芸術の連関です。
思想史の分野では、最近、中央公論社から刊行され始めた「哲学の歴史」全13巻中の『ルネサンス』の巻を編集し、総論とともにいくつかの章を執筆しました(2007年5月刊)。本巻は多彩な内容を含んでおり、従来の哲学史とは異なるユニークなものとなったと自負しております。
また、芸術論の分野では、ピサの高等師範学校教授リナ・ボルツォーニの『記憶の部屋』(ありな書房 2007年5月刊)を、弘前大学の足達薫先生と共訳しました。本書は16・17世紀における言葉とイメージの相互連関を記憶術という観点から広範に論じた研究で、すでに英訳・仏訳も刊行されている名著です。2007年5月にピサでボルツォーニ先生とお会いし、先生が所長を務めている「文学テクストと情報に関するセンター」を視察してきました。 (平成19年6月18日寄稿) |
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| 第4回 | 高久 健二 准教授(文化科学研究科文化環境研究) 埋蔵文化資料室企画展から |
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前方後円墳が造られた頃 高久 健二(考古学) 埋蔵文化資料室では、平成11(1999)年11月から現在まで、7回の企画展を開催し、資料を展示公開してきました。埋蔵文化資料室は、埼玉大学教養学部教授三友国五郎(人文地理学)先生のご遺族のご好意により平成14年9月寄贈された考古学資料、また、埼玉大学が現在の地に移転する際に発見された本村遺跡からの出土品を所蔵しています。現在、埼玉大学総合研究機構1階ホールに於いて「埼玉大学所蔵 古墳時代資料展−前方後円墳が造られた頃−」を開催中です。
「古墳の周囲におかれた円筒埴輪」(埋蔵文化資料室蔵)
埼玉大学周辺には大久保古墳群、白鍬古墳群、側ヶ谷戸古墳群、植水古墳群などが分布しており、今でも多くの古墳を見ることができます。 埼玉大学は大久保古墳群の南端に位置し、構内から古墳時代後期の円墳が確認されています。墳丘の直径は約30mで、埋葬主体部は大きく破壊されていましたが、凝灰岩製の横穴式石室と推定され、7世紀代に築造されたものと考えられます。副葬品の多くはすでに失われていましたが、鉄刀の鞘尻金具やガラス小玉が出土しています。また、隣接するさいたま市遺跡調査会V地点(大学会館付近)においても円墳の周溝と推定される溝が検出されました。かつては大学の北側に船塚古墳、西側に下大久保本村古墳、大久保領家には山王塚古墳が存在していました。同じく凝灰岩製の石室を有する古墳としては、隣接する側ヶ谷戸古墳群の台耕地稲荷塚古墳(7世紀前半)があります。
「見沼瓢箪塚古墳復元模型」(古墳時代後期 縮尺1/120 埋蔵文化資料室蔵)
![]() 埼玉の古墳文化は、3世紀後半頃に弥生時代の方形周溝墓から変化した前方後方形墓の築造によって始まります。やがて前方後方墳が築造され、4世紀後半頃から県内各地で前方後円墳が築造されるようになります。前期の集落は、弥生時代後期から継続して営まれるものもありますが、後張遺跡(本庄市・児玉町)のように後期まで継続する大規模な拠点集落が形成される点に特徴があります。 5世紀後半には稲荷山古墳(行田市)が築造され、埼玉古墳群の造営が開始されます。6〜7世紀代には円墳を主体とする群集墳が県内各地で造営され、後期の集落には、前期からの拠点集落に加えて、小規模な新興集落が多数存在し、集落数が増大します。 終末期古墳としては、切石横穴式石室をもつ八幡山古墳(行田市)が知られています。7世紀になると古墳とともに、寺谷廃寺(滑川町)や勝呂廃寺(坂戸市)などの寺院が造営され始め、7世紀末頃には、県内の古墳造営が終息に向かったといえます。埼玉の古墳群の盛衰と出土品は、古墳時代の遺跡の特徴を知る魅力にあふれています。(平成19年6月9日寄稿) 埋蔵文化資料室企画展の詳細は以下をご覧下さい。 埼玉大学開学50周年記念(1999年11月)「埼玉大学構内本村遺跡出土品展」 |
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| 第3回 | 塚本 嘉壽 教授(文化科学研究科文化構造研究) |
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造語症 塚本 嘉壽(臨床心理学) 私はここ数年、「造語症」を研究しています。「造語症」とはある種の心の病いをもった人々が、現実にはない、新しい言葉を作ってしまう症状です。欧米では音や綴りの造語が主ですが、わが国ではそれに加えて漢字を新作する場合が多く、私は主にこれを対象にしています。 原因については諸説あり、たとえば、通常の象徴機能、記号化作用の欠損に基づくといった説から、逆に、従来の言語では表しえない心の深淵の不安や危機を表現しているという説まで、さまざです。 井村教授の発表症例から(1959年 下記参照)
私もこの現象をいくつかの観点から考察しようと試みております。たとえば、新作漢字の文字内テクスト性(間テクスト性を拡張した表現)、精神病理学的にみた、述語的事態の妄想的形象化としてのそれ、精神分析的にみた、言葉の「もの性」、とりわけラカン派の言う「現実界」の強引な意味づけとしてのそれ、などなど。 「造語症」はさらに、漢字の表現性や中国古典の読解から、西欧のシュールレアリズム、ロシア・フォルマリズム、コンクレーテ・クンスト等の系譜に連なる近代の芸術論とも接点を持つように思われます。私はそうした応用例もいくつか発表しておりますが、これからさらに考察を深めていきたいと考えております。 日本において「造語症」を扱った専門書はありません。先達の論文には以下のようなものがあります。私の最近の研究は、これら先行研究を踏まえ、新しい視点から位置づける研究です。(平成19年5月24日寄稿) 先行論文 井村恒郎他:「文字新作について」『精神医学』1:537,1959 関忠盛:「言語新作」『臨床精神医学』9:1197,1977 塚本嘉壽:「漢字新作について」『精神医学』23:569,1981
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研究室から Research Profile
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文化科学研究科修士課程の研究、研究室、著書、教育プログラムなどを紹介するページです
| 第2回 | 牧 陽一 准教授(文化科学研究科日本・アジア研究) 著書『中国現代アート自由を希求する表現』(講談社選書メチエ、2007年2月刊)執筆をめぐって |
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黄鋭(ホアン・ロェイ1952-)のこと 牧 陽一(現代中国の文学・芸術) ![]() 1981年夏、初めての北京。僕はいつでもあの日に帰って、一休みすることができる。いつもそこには青い空が広がっていて、乾いた風が吹いている。北京は僕が思うほどお人好しでもないし、優しくもない。でもいつも変わらず僕を受け入れてくれる。 黄鋭に初めて出会ったのは初めての北京の翌年1982年だったと記憶している。中国はまだ社会主義で僕はまだ大学生だった。北京語言学院に留学していた。同じ留学生で美しいクラス・メイトに一目惚れした僕は彼女の部屋を訪れた。その部屋には見事な油彩画や皿絵が掛けられていて、それは彼女のフィアンセの作品だったのだが、そのフィアンセというのが黄鋭だった。僕は瞬時に失恋したことを知った。それから黄鋭が教室で学生をモデルにして描いているところに行ったこともあった。僕は教室が暗いから電気を点けたが、彼はすぐに消してしまった。自然光で描くからだったが、僕は無知な行為を恥じつつ、いっしょに描いた。黄鋭の姿は20代の僕の甘酸っぱい記憶とともにある。 翌年、黄鋭の「趙登禹路64号」の家で結婚パーティーが開かれた。王克平、馬徳昇、曲磊磊ら星星画会(中国現代アートの先駆的グループ)のメンバーが集まった。棋王、樹王、孩子王三部作で作家として名を成す前の鍾阿城もいた。しにせ料理屋「同和居」から来た若い料理人が腕を振るってかなり豪勢な宴会だった。僕は調子に乗って浴衣に着替えて男ストリップなんぞやっていた。近所の居民委員会(御上と通じていて変な人がいないか監視する人)のおばさんが探りに来ていたから、僕のやっていたことは何とも能天気だった。1983年8月には星星画会の最後の美術展が城南の自新路小学校で開かれた。艾青(中国近代詩を代表する詩人)を囲んで星星画会のメンバーが話していたのが印象的だった。彼らが中国の新しい文化を担っているのは確かだった。だがこの美術展も北京市政府によって禁止された。翌年1984年には王克平、黄鋭の出国が決まっていた。あの夜、馬徳昇は酷く酒を飲み、酷く泣いていた。
中国現代雑貨毛沢東とコインのウォータードーム(牧研究室蔵)
![]() 僕は帰国し、図書館で星星画会の1979年のデモのこと(『読売新聞』1979年10月2日のAP電写真には松葉杖の馬徳昇、プラカードを持つ王克平が確認できる。10月1日中国建国30年の日、星星画会は美術展の禁止に抗議し、芸術の自由と政治の民主化を求めて、長安街をデモ行進した。それは建国以来最初の抗議デモだった。)をやっと知ることになる。さらに発禁になった『美術』1983年1期を見ることもできた。そこには黄鋭、曲磊磊、王克平の作品が3作ずつ載っている。現在の作品とは隔世の感があるが、確かに中国現代アートは毛沢東様式を脱してスタートしていたのである。
中国現代雑貨陶器の置き物(「鉄の女」イメージ 牧研究室蔵)
![]() 2006年4月、北京大山子芸術区「中国当代画廊」で黄鋭個展が開催された。「毛主席万元」は「毛主席万歳!」の文字を人民元紙幣1万元分でつくっている。作品は6万ドルで売れたらしい。黄鋭は毛主席万歳!を紙幣で作るというアイディアで1万元を40万元に変えた。正に何を買っても値上がりするバブル経済そのものを金が金に変わるという作品で表現したといえる。そして毛沢東崇拝から拝金主義、バブル経済へとまい進する現代中国の矛盾をえぐり出した。だがこの中心になる当作品が展示を禁じられた。美術展では全体に紅い幕がかけられていた。黄鋭は作品展示、禁止、販売までのすべての工程を作品化したといえる。 黄鋭「トウ小平の女」もまた批判されている。こちらは確信犯といっていいだろう。「トウ小平の女」は「一個中心,両個基本点。抓両頭,帯中間。(1987年10月の第13回党大会で提起された党の基本路線)1つの中心とは経済建設、2つの基本点とは改革・開放政策と四つの基本原則(社会主義の道、人民民主独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)。抓両頭,帯中間は先進と後進の両端をつかんで、中間的大多数を導くこと。)」というゴチックの文字を女の裸の落書きのように並べた作品である。社会主義の道を忘れ、「経済活動」(金儲け)にばかり走る党を皮肉ったものだろう。黄鋭の「不遜ないたずら」は「共産党独裁の資本主義」を問題視している。 そして06年12月、798大山子芸術区の中心的アーティスト、当国際芸術節の芸術プロデュ−サーである黄鋭に対して、798芸術区物業管理部門「七星集団物業中心」から退去命令が出された。理由など詳細は明かではないが、大山子の建物の借料が3倍に跳ね上がったという。かつての廃墟、大山子798工廠は観光地と化し日本からツアーが組まれるほどの集客凄まじい金のなる木となった。当局は一層の収益を狙っている。芸術区最大の貢献者を追い出して、その成果の全てを横取りするつもりらしい。 僕の友人、反骨のアーティスト黄鋭、僕の研究はここから始まっていて、いつもここに戻ってくる。僕の北京は黄鋭のいる北京だ。(平成19年5月21日寄稿) |
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白系ロシア人の足跡を求めて 澤田 和彦(日露関係史)
1917年(大正6年)のロシア革命後1921年までに、約200万人のロシア人がソビエト政権を受け入れず国外へ亡命した。これらの人々は内戦時に白衛軍の一員としてソビエト政権の赤衛軍と戦い、あるいは白衛軍を支持したので、「白系ロシア人」と呼ばれる。日本を亡命先に選んだロシア人は数千人にとどまるが、彼らは近代日本の社会と文化に実に多くの恵みをもたらしてくれた。それを資料にもとづいてできうる限り明らかにしようとするのが拙著の内容である。
拙著執筆の機縁となったのは、二人のロシア人との出会いである。まず10年ほど前に、群馬県吾妻(あがつま)郡草津町でK. M. トルシチョーフ氏と出会った。その頃は 毎年埼玉大学でロシア語を学ぶ学生を連れて、草津町へ合宿に出かけていたのである。 氏の祖母と母は女優で、自身は日本語で詩を書く、数奇な運命の持ち主である。記憶力が抜群で、教養とユーモアのセンスに富み、楽天的な氏の魅力に惹かれて何度か草津に通った。ハンセン病の国立療養所「栗生(くりう)楽泉園」のお宅で、トルシチョーフ氏の記憶に導かれて半世紀から一世紀前のロシアと日本を頭の中で旅する体験は 未曾有のものだった。氏は 2006年にボストンの修道院で亡くなった。もう一人は、1995年の師走から4カ月間埼玉大学に滞在したV. I. ハルラーモフ氏(モスクワ・ロシア国立図書館)である。この優れた研究者であり書誌学者である人物の滞在の折りに、かつて日本で出たロシア語刊行物の書誌を二人の共同作業で作成するプランが芽生えた。だが帰国後まもなく氏が急逝したので、作業は 私が独りで続行するしかなかった。お二人のご冥福を心からお祈りする。 幸いなことに、私はこれまで数回にわたって文部科学省の科学研究費補助金を得ることができた。そして1998年から2005年にかけて、シドニーの露文季刊誌『 オーストラリアーダ』編集部、ハワイ大学ハミルトン図書館、プラハのチェコ共和国国立図書館付属スラブ図書館、サンフランシスコの「ロシア文化博物館」と郊外パロアルト市の スタンフォード大学フーバー研究所、サンクト・ペテルブルグのロシア国立図書館、ロシア科学アカデミー東洋学研究所、サンクト・ペテルブルグ国立大学東洋学部図書館、モスクワのロシア連邦国立文書館とロシア国立図書館で調査と資料収集を行った。ハワイでは朝から夕方まで誰とも言葉を交わさずに書庫の鉄格子の中で過ごし、プラハでは16世紀バロック様式の建物で教会の鐘の音を聞きながら資料の頁を繰り、パロアルトでは仕事の合間にリスのたわむれるスタンフォード大学の広大な敷地を散策した。ペテルブルグの東洋学研究所では窓からネヴァ川とペトロパヴロフスク要塞内の聖堂の金色に輝く尖塔を眺めながら資料を読み、モスクワでは陽光に照り映えるクレムリンの寺院と尖塔の傍らを毎日図書館に通った。まことに研究者として至福の時を過ごすことができたと思う。(平成19年5月16日寄稿) |