中華からの風にのって

                                                                     

 

上海写真館 

 

20号から31号までは画像ファイルです。クリック/ダウンロードしてお読み下さい。

 

31. 法も国家も超越した皇帝=中国共産党 ( 1   2  )     30. 55の民族を抱える「多重国家」(  1    2   )29..北は麦、南はコメが主食 中華料理も一様ではない( 1    2  )   28. 「二重ドア」「二重カギ」学ぶべき防犯意識(  1   2  )   27. 教育においても格差の大国( 1   2  )    26. 中国ビジネスの目に見えぬコスト(  2 ) 25. 国の制度は変る。拠り所はおカネ(  1   2  )     24. 利己主義から来る公共マナーの悪さ(  1   2   )   23. 自分を守るために先ず「城」をつくる( 1    2 )   22. 苛烈な社会で生きていく知恵( 1    2  )  21.「論理」よりも「道理」で動く中国人( 1    2 ) 20.騒ぎを起こして楽しむ上海「反日デモ」の様子 ( 1   2 )

R東アジアの孤児は日本か:進む中国と韓国の交流 Q巨大な大陸が生む権力の妖しげな魅力 Pしたたかな中国のサラリーマン O遵法意識の希薄と厳しい自己責任の社会 N大地の民と海洋の民 M「亡国」という感覚が分らない日本人 L台湾の歴史を想う K偉大であればあるほど矛盾は大きい   Jイデオロギーより飯・カネが大事  I最初に疑いあり「身分証の社会」


 

 

R

堂園 徹

 

 

東アジアの孤児は日本か

進む中国と韓国の交流

 

昨今の日本では韓国ドラマがブレークしているが、中国や香港ではかなり前から韓国ドラマの人気は高かった。1995年から98年まで私は香港にいて、テレビの北京語のチャンネルでよく韓国ドラマを見ていた。その後上海に移ってからも、韓国ドラマは放映されていたので、時々みていた。

 

中国や香港で韓国ドラマが放映されるのは、日本のTVドラマに比べて放映料が安いからであるが、この結果、中国人はドラマを通じて韓国の風俗、習慣等を垣間見ることができるようになった。

 

 

「哈韓族」の流行

 

日本ではTVドラマが引き金となって韓国ブームが起こりこれを「韓流」と呼んでいることを一時帰国した時に知ったが、中国では一昔前から「哈韓族」という言葉が流行している。これは韓国の映画やTVドラマ、ポップス、ファッションなどを好む人達のことを意味しており、日本のものを好む人達は「哈日族」と呼ばれているが、今は「哈韓族」に押されている感じがする。

 

 押されているのは文化や芸能だけではない。最近、知人の中国人に言われて気がついたが、デパートやスーパーなどの電気製品売り場では、日本メーカーの製品が韓国メーカーに押されている。二昔前の中国で、電気製品と言えば日本メーカーの独擅場で日本製品に対する神話があったが、今は韓国製品の信頼も高くサムソンやLGなどは、中国市場ではかなりの占有率を誇るメーカーとなってきている。

 

サムソン製の携帯電話は中国の若い人の間では人気があり、サムソンは中国においてデジタル製品の代表的存在になりつつあると言われている。サムソン以上に中国市場に浸透しているのは、LGで一部の中国人消費者から「LGは中国のブランド」と思われるほどになってきている。

 

 上海在住の韓国人もここ2−3年で急激に増えており、推定で4−5万人の韓国人が上海に長期滞在していると言われている。私の住むマンションでは同じフロアに何組もの韓国人家族がいて、エレベーターや廊下では韓国語が飛び交うようになってきた。マンション住人への掲示板は、この前まで中国語、英語、日本語の3ヶ国語であったのが、最近は韓国語も付け加えられるようになった。

 

 上海動物園の近くに、「龍柏新村」という地区がある。この辺り一帯は、ハングル文字で書かれた看板がよく目につく。ここを歩いていると、路上で食べ物や雑貨品を売っている人たちに、ハングル語で呼びかけられてビックリした。まさかこの人たちは韓国から来たのだろうかと思った。聞いてみると中国の少数民族である朝鮮族の人たちであった。

 

朝鮮族は朝鮮半島の付け根にある遼寧省や吉林省に多く居住しているが、上海のこの地区に多くの韓国人が住んでいるので、言葉の通じる朝鮮族が来て商売しているのである。この地区のレストラン、理髪店、医療クリニック、マッサージ店は朝鮮族の人間を何人か雇用しており、漢民族のスタッフには簡単なハングル語を話せるように訓練している。そして時々、この地区には韓国人観光客を乗せた大型バスが止まる。

 

 

10年あまりの韓中交流

 

 韓国と中国の芸能界の交流も非常に盛んである。ある時、中国のTVドラマを見ていると、そこに中国の女性に人気のある韓国の二枚目俳優、安在旭が出てきたのに驚いた。彼が韓国人としての配役で出ているのなら分かるが、中国人のエンジニア役を演じており、声だけが吹き替えであった。日本のTVドラマで、韓国人俳優が日本人役として出演することがあるのだろうかと考えてしまった。

 

80年代初め、台湾で北京語を勉強する外国人学生の数は、アメリカ、日本、韓国が上位を占めていた。アメリカ人や日本人は、中国にも留学することができたが、その当時、中国と国交のない韓国の学生は中国に留学することはできなかった。

 

私は同じクラスの韓国人留学生から、韓国も台湾と国交断絶して中国と国交を結ぶ準備をしていると聞いて驚いた。何故なら韓国は北朝鮮と対立して反共を国是としており、同じ反共の台湾との同盟を解消するとは思えないし、何よりも韓国にとって中国は朝鮮動乱の時に戦った敵国だから、韓中の国交など考えられないと思ったからである。

 

そう訝っている私に、彼はこう説明した。「韓国と台湾は経済構造が似ているため相互の貿易が少なく、経済的メリットも少ないが、中国との貿易は大きな経済効果が期待されるので、韓国外務省は密かに中国と国交を結ぶ交渉をしている」。

 

 彼の言った通り、1992年に韓国と中国は国交を結んだ。日中国交回復に遅れること20年である。しかしわずか10年あまりの韓中交流の方が、それより20年も長い日中交流よりも緊密で深いように感じる。

 

 

乗り遅れる日本   

 

東アジアは中国大陸、朝鮮半島、日本列島と三つの地域があり、古来、大陸で起きた文明と文化は朝鮮半島から日本列島に伝わった。だからこの3地域の基層文化は同じである。

 

そして近代になり、国家としての日本は、様々な条件と要因が重なって、西洋の模倣に成功し、戦前は軍事大国となり戦後は経済大国となった。だが、戦前の日本は軍事大国の驕りから西洋の模倣に手間取る大陸や朝鮮半島を侮ってこれを侵略した。

 

今の日本は又経済大国の驕りからか、韓国や中国を一段低く見るような傾向もあるが、その間に韓国と中国の交流は確実に深化している。

 

 昔、台湾が中国は一つという原則のもと、国際社会では国家として認めてもらえないことから、台湾の知識人は台湾を「アジアの孤児」と自嘲的に呼んでいたことがある。

 

が、わずか10年あまりの韓国と中国のしたたかな交流を目の当たりにして、戦前は軍事大国、戦後は経済大国として驕り、韓国や中国を対等に見てこなかった日本こそが、「東アジアの孤児」ではないだろうかと思えるのである。

 

 

Article posted by T.Dozono on 2005/4/4, page arranged/uploaded by Cindy on 2005/4/21.

 

 

Q

堂園 徹

 

巨大な大陸が生む権力の妖しげな魅力

 

国全体が狂気の渦の中に包まれることがある。日本が日中戦争から太平洋戦争に突入した時代はそうであったと言える。中国では「文化大革命」(1966年―77年)がまさにそれで、中国人は文革を「十年浩劫」(10年の大きな災禍)と呼んでいる。

 

「災禍」というなら、その前の「大躍進」では何千万人という人間が餓死しているし、大陸の歴史を顧みれば大災禍は枚挙にいとまがない。しかし中国人が文革の10年を特にこのような呼び方をしているのは、国全体がここまで狂気に陥り、多くの人々の心に修復できないぐらいに深い傷跡を残したと言う点では、大陸の長い歴史のなかでも未曾有の災禍であったからである。

 

文革は、大躍進の失敗で国家主席のポストを劉少奇に譲ってから、権力の中枢から遠ざかった毛沢東が、再び権力を奪還するために起こした政治闘争運動であった。毛沢東は言うまでもなく、彼がいなければ新中国はなかったと謳われるぐらい、中華人民共和国建国の最大の功労者である。

 

 

 死んでも離さぬ権力

 

しかし、彼は行政面での能力に問題があり、特に経済に関してはまったく分かっていなかった。農村で生まれ育った彼が、机上で考えたアイディアを実現しようとしたのが大躍進政策で、これが現実離れした経済建設運動であったために、多くの餓死者を出すという深刻な結果に終わった。このことから彼は政治の第一線を退くことになり、実権派から神棚に祭り上げられる存在となった。

 

昔、日本の遣唐使たちが、唐王朝内部の権力闘争の凄まじさに驚いたと言われるが、大陸での権力闘争の凄さは、権の持つ力の大きさが大陸と日本では桁違いであり、その大きな力を得るために人々は、生きるか死ぬかという瀬戸際で闘っていることからきている。

 

大陸の最高権力者が、その権力を後継者に譲ってあとは悠々自適に暮らしたということはあまり聞かない。権力者が一旦その権力を離れれば、次の権力者から生命を奪われる危険性があるので、権力の頂点に立った者は死ぬまで権力を離さないのである。

 

巨大な大陸の統治者には絶大な権力が授かる。ましてやこの広大な地域を分裂状態から一つにまとめて、新王朝を開いた人間は、まさに天の生んだ子、天子であり、高祖や太祖と呼ばれ、人々から神様のように崇められる。日本列島を統一した人間とでは、権力においてもスケールが違っている。大陸の権力の味は糖蜜よりも甘いために、一旦権力の味を知った人間はそれに終身、執着する。毛沢東も例外ではなかった。

 

共産党が天下をとってからの中国を新中国と言い、それまでの中国を旧中国と言っている。旧中国時代は列強の侵略と内乱で国が疲弊した。外国人は中国に来て租界をつくり、治外法権を享受し、公園には「犬と中国人は入るべからず」というような屈辱的な看板が張られた。大都市の裏町の路上ではアヘン患者と何日も飲食してない人が、折り重なるように寝て、運よくまだ生きていれば、翌日は糞尿にまみれて起き上がるという凄惨を極める風景が見られた。

 

その当時、外国人ジャーナリストが中国の現状を観察して「この国は滅亡していく」と書いた。こうした民族の危篤状態から新しい中国に蘇生させたのは、毛沢東の指導力に他ならなかった。

 

危殆に瀕した民族を救い、混乱の極みにあった社会を一つにまとめた毛沢東は、偉大な王朝の開祖と同じで、大衆から神様のように崇められた。

 

 

 深い傷を残した文革十年

 

文化大革命において、毛沢東は権力を奪還するために、大衆の自分への崇拝心を利用した。このために、大陸の長い歴史の中でも未曾有の混乱と破壊を引き起こした。

 

だが混乱は、いつかは収束する。しかし破壊は文化的財物を壊し貴重な財産を失わせた上に、「人の心」まで壊した。文革はその極左的傾向から、数千年にわたる漢民族の伝統的価値観を否定し、それによって人々の心まで打ち砕くことになった。文革には人間としての情理、人間性がひとかけらもなかったと、今でも多くの中国人が言う。

 

それは「親孝行」という中国人が最大限に価値を置いている美徳までもが、党や国家への忠誠のために砕かれたことからも窺える。共産党に少しでも不満がある者を、たとえ親であっても告発することが奨励された。親子同士、兄弟姉妹同士、夫婦同士で告発が奨励され、中国の伝統的家族観が否定された。親を売り、子を裏切り、夫や妻に背くことが行われ、それに耐えられずに、多くの人間が精神に破綻を来して自殺した。

 

学問の神様である孔子を生んだ国で、学問が否定された。学校では生徒が教師を批判し吊し上げた。もはや学問の場ではなくなった学校で、紅衛兵という学生の組織が作られた。彼らが毛沢東を熱狂的に支持し、毛沢東も彼らに「造反有理」(体制に反逆することは理にかなうこと)というお墨付きを与えた。

 

この紅衛兵が職場や官庁に行き、「批闘」(批判と闘争で吊るし上げを行う大会)を行った。多くの人間が密告だけで批闘の対象となり、時には悲惨な状況のなかで死に至ることも少なくなかった。国家主席だった劉少奇は獄中で満足に食べ物も与えられずに死んだ。

 

大学病院では紅衛兵によって、権威ある教授が便所掃除に従事させられ、多くの医者が自己批判させられ、監禁されていた。そして病人の診察や手術は紅衛兵の医学生たちが行ったため、治る病気も治らず、助かる命も助からなかったという悲劇も起きた。

 

こうした悲劇が中国各地で起き、多くの人が命を落とした。命を落とさなかった人も精神に深い傷を負ったのが、文革の10年である。

 

中国では偉大な指導者たちを、親近感を込めてその姓の下に「公」をつけて呼ぶことがある。例えば、蒋介石は「蒋公」、周恩来は「周公」と呼ぶが、毛沢東だけは「毛公」とは誰も呼ばない。現在の中国は毛沢東時代と違って、言論の自由が進み、私的な会話であればかなり自由なことが言える。だから毛沢東を「暴君」と呼ぶ中国人も少なくない。

 

 大陸という大きな舞台が生み出す人物は、功績も大きければ、犯した罪もまたとてつもなく大きい。 

 

 

Article posted by T.Dozono on 2005/2/28, page arranged/uploaded by Cindy on 2005/4/21.

 

P

堂園 徹

 

したたかな中国のサラリーマン

 

日本人のサラリーマンで、会社から貰う給与以外に収入を得ている人は少ない。会社に勤めたらその会社の仕事だけを一所懸命するのが、日本人の職業倫理になっている。そもそも日本人のサラリーマンは、終身雇用と年功序列に守られているサラリーマンは、一つの収入だけで十分に安心して暮らしていけるからである。

 

もし、一つの収入だけで暮らしていけなければ、日本人も他の収入の道を考えるだろう。最近のように大企業でも倒産する時代となり、倒産まではいかなくてもリストラでいつ会社から放り出されるか分からない状況になると、資格取得で副収入を考えるサラリーマンも増えてくる。が、日本では副収入の道はそう簡単ではない。

 

私が台湾にいた頃、台湾人というのは会社の仕事が終わったあと、また別の仕事をしている人が多いことに驚いたことがある。中には第三の仕事、第四の仕事まで持つ人もいると聞いて更に驚いた。会社の仕事以外に、友人と組んでビジネスをしている人たちが多いのであるが、このような人たちは顔を会わせると、サイドビジネスには何が良いか、財テクはどうすれば良いかなどの話をしている。

 

 

副収入は当たり前

 

日本人から見ると、「少しは勤めている会社の仕事を真面目に考えたらどうか」と言いたくなるぐらいである。しかし台湾では一生安心して勤められる会社は少ない。零細中小企業が多く大企業は非常に少ない。

 

だから日本人と違って台湾人は会社というのは潰れる可能性があることをきちんと認識している。大きな会社でも、業績が悪くなれば簡単にリストラされる。

 

公務員が安定しているが、それでも絶対とは言い切れない。何故なら、若し中国が台湾に武力進攻して、中国共産党の支配下に置かれたら、台湾の中華民国政府はなくなるからである。

 

会社は勿論のこと国家政府ですら、絶対ではない社会に生きているのである。だから保険として収入の道をいくつも考えるのは自然なことと言える。

 

香港人も然りである。私が住んでいた香港のマンションの家主は、大手日系企業の香港法人に勤めていた。家主はその会社の香港人スタッフの中ではトップであるが、その上には必ず日本本社から派遣された日本人のボスがいる。

 

彼が会社から貰う給与は、その日本人ボスより低いはずであるが、彼はその日本人ボスより金持ちである。と言うのは、私が借りていたマンションは、その当時、買えば

約7000万円ぐらいの物件で、そのようなマンションを彼は何軒も持っていて人に貸していた。ローンもあるだろうが、それでもちょっとした資産家である。彼はBMWに乗っていたし、奥さんは大きなダイヤの指輪をしていた。

 

大手日系企業の現地人スタッフのトップであればかなり忙しいから、第二の仕事などもできないはずである。私は当初、株や外国為替の売買で儲けたのであろうと思っていた。

 

 

キックバックの横行

 

市場経済が導入される前の中国では、学校を卒業したら国の手配で仕事が決められた。自分の意思で職場を決める自由はなかったが、「鉄飯碗」(鉄のご飯茶碗は割れないことから、一生食いはぐれのない仕事)なので、失業の心配もなく生活に不安を感じることもなかった。

 

物資も娯楽も少なかったので、お金もたいして必要ではなかったが、そもそもお金儲け自体が悪いことと看做されていた。

 

それが市場経済になると、職業は自由に選べるようになったが、「鉄飯碗」もなくなり、失業や生活不安が生じるようになった。そうなると台湾や香港と同じような社会になり、「金儲けは善」で収入の複数化を計るようになってきた。

 

今、中国のビジネスでは「回扣」(キックバック)が普通に行われる。例えば、会社で制服を作るとき、数社の見積もりを取ってどこの業者が良いかを決める。そのとき担当者は数社の中で自分に一番キックバックを多く渡してくれる会社に決める。あるいは最初から自分が関係する業者に決める。

 

販促グッズや名刺を作るとき、事務所を内装するとき、OA機器を購入するとき、商品を配送するとき、そのそれぞれで、業者を選択する権限のあるものは、業者からキックバックをもらうことができる。

 

中国にある日系企業では業者選択は日本人経営者ではなく、中国人社員に任せることが多い。

私はある日系企業の中国人幹部の副収入が毎月10万元以上(約130万円)あると噂されているのを聞いて驚いた。因みにこの幹部が、会社から貰う月給は1万元(13万円)で、中国では高給サラリーである。

 

この幹部は上海にいくつも高級マンションを持っており、こうした噂は中国人同士の間でされるが、もちろん日本人経営者の耳には入ってこない。

 

中国ではサラリーが高ければ高い人ほど、サラリーの何倍もの副収入が入ってくる立場になり、サラリーの低い人ほど副収入の道は狭くなる。

 

中国の公共事業では、費用の半分はキックバックと官庁への付け届けで消えていくと言われる。中国は人件費が安く、物価も安い割には、事業を行う費用が高いのはこうしたことにも原因がある。それが裏の経済を作り、大都会の高消費水準を支えているので、本来なら貧しい中国のはずが、商業的に繁栄しているとも言える。

 

日本から中国現地法人に派遣されている日本人駐在員は、自分たちの給与は中国人スタッフの何十倍も、もらっていると思っているが、実際は中国人の方が、金持ちであったりする。したたかさという点では日本人は中国人には遥かに及ばない。

 

 

 

Article posted by T.Dozono on 2005/1/31, page arranged/uploaded by Cindy on 2005/4/21.

 

 

O

堂園 徹

 

遵法意識の希薄と厳しい自己責任の社会

 

北京や上海に限らず、今や中国の大都市の道路は半無秩序状態に近い。長年上海で暮らしている私も、交通のひどさには時に閉口させられることがある。

 

上海は中国一の国際都市であるためか、交通マナー向上には力を入れており、市内の至る所の交差点で交通警察官や交通巡視員が交通整理をしているが、それでも交通マナーの改善には目立った効果は表れていない。

 

 

交通ルールを守らない

 

人々はあまりに自分勝手に道路を渡る習慣がついてしまったのか、警官がいても赤信号で平気で横断する。警官が笛を吹いてもそれを無視して渡る。警官が追いかけて注意すると、今度はその隙を見て他の人が渡る。そしてそれにつられてまた何人かが赤信号で渡って行く。

 

自転車に乗った中年の女性が、赤信号で渡っているので、交通巡視員は笛を吹いたが、それでも止まろうとはしない。そこで巡視員は走って行きその自転車の前に立ちはだかった。ることで、急に前進を阻まれたその女性は怒って、自転車から下りると、「なぜ止めるのか」と喰ってかかっていた。巡視員は赤信号だからと言って、自転車を歩道の所まで戻すように促す。道の真ん中で止まっていては、車の通行の邪魔になるからである。だが女性はそれに従わずに足を踏ん張る格好をして、死んでもここから動かないという態度をしっかり示している。「下がれ」「下がらない」の言い合いをしているうちに、信号が青に変わった。すると巡視員は持ち場である歩道のところに戻って交通整理を始め、女性も何事もなかったかのように、自転車に乗って去って行った。

 

また車の運転手たちには「譲りあいの精神」が希薄である。わずかでも隙間があれば、割り込もうとするので、車同士の接触事故が絶えない。そして事故が起きると当事者たちはその場で車を止めて口喧嘩を始めるので、車の流れが滞ってあっというまに交通は渋滞してしまう。

 

上海の交通渋滞は深刻な問題であるが、交通ルールを人々がきちんと守り、譲り合いの精神があれば、渋滞の半分以上は解消されるという。

 

どうしてルールを守らないのだろうかと思うが、しかし今の上海の交通ルールでは正直に言って、守っても仕方がないと感じることがある。というのは横断歩道で目の前の信号が青であっても安心して渡ることができないからである。右折や左折する車が次から次へ横断歩道に入って来るので渡れないのである。それらの車が行き過ぎるのを大人しく待っていると、今度は信号が赤に変わってしまう。これでは信号の色に関係なく、自分の目で確かめて、安全と思ったときに渡った方が良い。信号は守るものではなく、あくまで参考にしかならない。これは信号がきちんと考えられて設置されてないことと、交通ルールも完備されてないことに原因がある。

 

 

人民を管理するための法

 

交通ルールに限らず、中国では法律制度がまだ整備されていない。その上に、中国人のルールや法に対しての意識が、欧米人や日本人とも根本的に違うところがある。

 

近代ヨーロッパでは、権力者の横暴から、市民を守るために法を整備させていった。法は個人が権力を持つ国家に対抗するための手段であるから、個人は法を守ることで、自分を守ることができる。日本も欧米に倣ってこのような法制度を確立してきた。

 

一方、中国は戦国時代(紀元前403年から前221年)のはるか昔に法家思想が生まれた。法家思想では人間を性悪説と捉えており、人民を管理するためには、法で縛らなければならないと考えていた。だから法は統治者が民衆を支配するための手段であった。このような考えが何千年も続いたせいか、ヨーロッパで起きた個人を守るための法という概念は中国では生まれなかった。

 

人民を管理するための法というのは、それはつまるところ、法に従わない者には罰を与えるということである。中国語の「法」と「罰」の発音表記は共にFAである。中国語には声調(トーン)があり、「法」と「罰」同じFAでも声調が違うので、同じ発音ではないが似ていることもあって、中国人にとっては法=罰という認識が長い歴史の中で刷り込まれてきた。そのため罰則があっても、現実に罰則が実行されないような法であれば、例えば交通規則のようなものは、端から守ろうという意識を持っていない。信号は守ったところで待たされて割を食うだけなので、自分で安全と判断したときに渡ったほうが良い。

 

 

自分を守るのは自分

 

ある日本の法律家は、「中国人は権利の極大化と義務の極小化を計る」のが中国人の民族性と言う。日本人からみると、とんでもない利己主義者に思えるが、国家の興亡を繰り返してきた大陸では、法は恒久性を持たず、易姓革命によって別の国家に変わると、又別の法ができるので、権利を主張できるときは最大限に行い、果たすべき義務は最小限に抑えるというのが、不安定な社会で生きていくための知恵であったのかもしれない。

 

法が罰であったという長い歴史的事実と今も規則や法が完備されていないため、守っても割を食うだけという社会的現実が、人々の遵法精神の育成を阻害している。中国人はよく「自分は「『守法公民』(法を守る公民)だ」と自慢する人がいるが、「守法」という当たり前のことが自慢になるぐらいに多くの人々の遵法意識はまだ高くない。

 

そしてそれは今も多くの中国人には法によって自分を守るという意識が薄く、自分を守るのは自分しかないという厳しい自己責任の生き方をしていることにもつながる。

 

赤信号でも平気でわたり、横断報道でないところでも平然と道を横切って行く。時には動作が敏捷とは思えない老人が、広い道路の中央分離帯の垣根を乗り越えて渡って行く。その老人を見ていると「自分で安全を確かめて渡っており、自己責任でやっているのだからどこが悪い」と言った感じで少しも憚るところがない。

 

こうした中国人は、赤信号なら車が来ていなくても待ち続け、青信号なら左右の確認もしないで渡る日本人とは対極にあるが、自己責任という点では日本人は中国人の足元にも及ばないことは確かである。

 

 

Article posted by T.Dozono on 2005/1/4, page arranged/uploaded by Cindy on 2005/4/21.

 

 

N

堂園 徹

 

 

 大地の民と海洋の民

 

 上海には地方から出稼ぎに来ている人たちがたくさんいる。近隣の江蘇省や浙江省からだけでなく、安徽省、江西省、四川省からも非常に多くの人たちが働きに来ている。これらの省は内陸で海がない。彼らと話して驚いたのは、彼らは一度も海を見たことがないことである。

 

考えてみれば中国は大陸国家だから、海を見たことがない人がたくさんいるのは当たり前のことであるが、これが日本人と中国人を比べるのに興味深い材料であることに、今まで気がつかなかった。

 

上海は近代になって港として開けたところであるが、それは外洋ではなく揚子江の支流である黄浦江に面して発展した。従ってポートタウンであっても上海で海を見るには車で市内から1時間ぐらい移動しなくてはならない。それに周辺には海水浴場もないので、上海にいても海を見る事がない。

 

中国は広い国なのでその海岸線も長いが、人口の大半は沿海ではなく内陸に住んでいる。だから中国人のほとんどが一生涯、海を見ることがない。上海、天津、大連、青島、香港など沿海にも大都市はあるが、これらの街は近代になって、欧州や日本の列強が乗りこんで来てから開けたところであり、それ以前の中国の人口は圧倒的に内陸に集中していた。

 

 

天の下は海ではなく大地

 

 中国では天下を狙うことを「中原還逐鹿」「中原に鹿=帝位を逐(お)う」と言う。中原は中華文明の発祥地で、今の河南省一帯の黄土高原を指している。その地を古代の中国人は天の真下にある大地と考え、そこから天下と言う概念が形成された。その地を世界の中心と考えて、中華思想が生まれた。

 

中華文明を生み出した古代の人々の視界には、天の下は大地であって、海はなかった。海は大地の行きつく先にあって、地の果てにあるのであるから、海は中国人にとってある種の死の世界を意味していた。文明は海から遠く離れた場所で生まれたので、海に近づくほど文明度が低くなると考えられた。だから海の向こうは「化外之地」(文化の外にある地)と呼び、野蛮なところと信じていた。

 

長い間、中国の政治と文化の中心地は海から遥か遠く離れた長安や洛陽のような内陸にあった。元王朝以来の首都である北京も沿海ではなく内陸にある。

 

中国文化と中国人という概念形成には海より大地の影響が大きい。その意味で中国人は「大地の民」といえる。

 

 明の永楽帝の時、鄭和はコロンブスやバスコ・ダ・ガマよりも先に世界航海に出かけている。自分達のいる所を世界の中心と考え、海の向こうに関心を払うことがなかった「大地の民」の歴史にとって、これは極めて異例のことであった。しかし永楽帝以後は又海外への関心は急速にしぼんでいる。

 

 一方、日本人は昔、中国の知識人によって「鱗介(魚類と貝類)の族」と呼ばれていたように、海と深く関係していた。海に囲まれ人口も沿海部に集中しており、中国人からこのように呼ばれても不思議ではない。日本も昔は山国で一生過す人は海を見なかったであろうが、それでも大半の日本人にとって昔から海は身近な存在であった。

 

 食べ物でも日本人は魚を多く食べる。日本語で「海の幸」と言う表現があるぐらいに、海からの恩恵を享受している。中国人にとって魚といえば、川魚が主流で海の魚ではない。中国語には海の幸という表現はなく、単に「海産」というだけである。

 

日本は政治や文化の中心も今の奈良県周辺を除いては、海に近いところに設けられていた。その奈良も日本では内陸に当たるが、大陸の感覚では奈良も海に近いと言える。日本は狭い島国なので、どこであっても海に近い。だから日本文化と日本人という概念形成に、海は多大な役割を果たしてきた。日本人は間違いなく「海の民」である。

 

 

「洋」は軽薄、「土」は荘重

 

 「洋」という漢字は大きな海を表わす。現代中国語ではそこから海の向こうの外国を表わす言葉になる。「洋人」とは外国人である。因みに中国語で「東洋」というのは、日本のことであって、日本語あるいは英語のORIENTのようにアジア全体を指してはいない。中国から見て日本は海を越えた東側にある外国であるから、東洋なのである。「東洋人」とは日本人で、明治時代、日本から上海に出稼ぎに来た「からゆきさん」を中国人は「東洋妓」と呼んだ。

 

 日本語でも洋式、洋風といえば、ハイカラな意味を含むように、現代中国語も「洋」は近代的、モダンなどの意味がある。この対義語が「土」で旧式、バタ臭いという意味になる。

 

しかし「洋」がこのように肯定的な意味を持つようになったのは、西洋の列強が中国を侵食するようになってからのことである。それまでは、清の乾隆帝が英国使節のマカートニーに向って「中華の大地にあって存在しない物産はない。貿易はお前達外国人に与えてやっている恩恵だ」と言い放ったように、中国が朝貢貿易(外国が入貢してきたらそれに対して賞賜を与える形式の貿易)の意識を持っている間は、自分達が立っている「土」が上で海の向こうの「洋」は下に見るものであった。

 

 また「洋」は軽薄さを表し「土」は荘重さを表わす。海の民の日本が「洋」とすれば、大地の民の中国は「土」である。「洋」の日本は軽くて変わり身が早いので、近代化も迅速だった。その結果、かつて先進の文明と文化を教えてくれた「土」の中国が、その荘重さ故に近代化に手間取る様子を眺めて、日本は中国に偏見を持つようになった。それが日本の中国侵略にもつながったと言える。

 

 どこまでも果てしなく続く大地にあって、海を見ることもなく、或いは海を見ても大地の尽きた所にある、何か不吉なものとして捉える文化を持っていた中国人と、海から多くの恩恵を授かり、海を見て海の向こうにある大陸や異国に思いを馳せて文化を築いてきた日本人とは、相貌が相似して同じ文字を使っても、ものの考え方の根本的なところで異なるのは当然のことであろう

 

 

 Article posted by T.Dozono on 2004/11/29, page arranged/uploaded by Cindy on 2005/1/2.

 

 

M

堂園 徹

 

 

「亡国」という感覚が分からない日本人

 

                   

上海で私が毎日通っている道が、ある朝気がつくと、そこが一夜にして瓦礫の山と化していることに驚かされることがある。まるで昨夜、空襲にでもあったかのように、そこに存在したすべての建物は壊されて瓦礫が山積している。ついこの間まで、道の両側に洗車屋、雑貨屋、床屋、食堂などがあってそこで忙しく働く人たちがいたのに、一体彼らはどこに行ったのだろうと思ってしまう。

 

 

土地はすべて国家所有

 

 中国ではすべての土地は国家が所有している。中国で土地の売買というのは、土地の使用権を売り買いしていることをいう。土地使用権は一般に50年(用途によって異なる)である。

では50年間は、その土地を使用することが保証されているのかと言えば、そうではないこともある。国家の土地所有権は土地使用権もよりも優先するからだ。「中華人民共和国国有土地管理法」というのがあり、その条項に該当する場合は、土地使用権を回収する事ができることになっている。

例えば公共の利益のために、国家がその土地を使用する必要が有る場合、つまり、公共の福祉という大義名分が成り立てば、いつでも土地使用権を取り上げる事ができるのである。もちろん土地使用権の権利者には補償はするが、市価を参考に政府が決める。だから日本のように、ゴネ得ということはなく極めて公平でもある。

この法律のお陰で、中国ではまっすぐな道路を作る事ができるし、市街地の真ん中に公園を作り高層ビルを建てることもできる。経済の観点から見れば、非常に効率的である。

土地使用権は一般に50年であるが、では50年過ぎたらどうなるのだろう。香港やマカオが中国に返還されても、政治経済システムは50年間不変と決められているが、その50年が過ぎたらどうなるのだろう―――という疑問が起きる。しかし50年後のこと誰にも分からない。

 

 

国家は流転する

 

日本人は、50年後も自分の国が日本国であり続けることに、あまりにも当たり前すぎて、疑問も涌かない。日本列島は昔、大陸の人から倭国と呼ばれていた。倭とは背の低い小人の意で、その呼称はあまり気持ちの良いものではなかったので、遣隋使として大陸に正式に使者を派遣する頃から、「日の本の意」で日本と自称するようになった。「中国」とは言うまでもなく、「中華人民共和国」のことである。しかし中華人民共和国という国は1949年に成立した。それ以前は「中華民国」であり、その前は「清国」であった。

日本人が大陸を中国と呼称するようになったのは戦後からで、戦前は「支那」と呼んでいた。支那という呼称は江戸中期以降と言われる。それ以前は豊臣秀吉の朝鮮出兵を「唐入り」と呼び、「唐、天竺」という言葉から唐と呼んでいたことがうかがえる。

このように日本では大陸に対する呼称は変遷しているが、そのことはすなわち大陸の国家は流転していることを表している。

大陸では国家が変遷していると言う当たり前の事実に、私が気づいたのは、平清盛を描いた本で、そこにその当時の東アジアの地図を見た時からである。今から約800年前、大陸は宋があり、その北側には契丹族が作った遼が、そのさらに北には女真族が樹立した金があり、西側には西夏があった。やがて金が遼を滅ぼすが、その金を滅ぼしたのが、金国よりもさらに北にいたモンゴル族のジンギスカンである。そして元ができ、南宋を完全に滅ぼして大陸の統一王朝となった。

大陸でこれだけの国の興亡が起きている間、日本は日本のままである。平氏から源氏の天下にと変わったが、時の権力者が変わっても日本は滅びていない。大陸の場合、国の中の権力者が入れ替わったのではなく、国そのものが滅びている。大陸は一国一王朝で王朝名が即ち国号になるので、王朝が滅びることは国を亡(うしな)うことになる。

この意味で日本は国が滅びた経験を持たない。太平洋戦争で無条件降伏し、米軍に占領されても国体は維持された。戦争に負けた時、多くの日本人は杜甫の有名な詩句「国破れて山河在り」を口ずさんだという。しかし日本人には大陸の人たちが経験してきた「亡国」という感覚は分からない。

 

 

「易姓革命」という政治思想

 

 大陸には「易姓革命」という政治思想がある。「易姓」とは姓を易(か)える事で、革命とは命を革(あらた)めることである。天下は天の命を受けた者が天子となって治める。例えば劉邦は天命を受けて天子となり漢王朝を建てて、天下は劉の姓の者が代々引き継ぐことになるが、そこに不徳の天子が現われて天下が乱れれば、他の姓を持った者に天命を革めることが易姓革命である。天は概念としては「公」であり、これが「私」である劉家に天下を支配する権限を托しているのである。だから漢王朝は「劉家江山」(劉家の天下)であり、大陸では国に仕えるということは「公」ではなく「私」に仕えることでもあった。

一方、日本の天子は万世不易で、天皇家は永久に変わらず、「私」である源氏も徳川家も「公」である天皇から支配権を授かる形をとってきた。「私」の背後には永久不変の「公」があった。このために日本は大陸のように国家が興亡するようなことはなかった。そして現在も日本国の総理大臣は天皇から任命されるという形をとっている。

易姓革命の伝統を破ったのは辛亥革命を起こした孫文である。孫文はそれまでの天から支配権を授かる形ではなく、人民の支持を根拠にして天下を治めることを目指し、「天下為公」をモットーにした。易姓革命の本質は「天下為私」で「私」は徳の有る者という条件はあるが、「公」ではなかった。

 

 中華人民共和国は中国共産党が支配するが、その権限は理論上、天から授与されたものではなく、人民の支持を根拠にしている。そして現在の中華人民共和国憲法では共産党のみに執政権があり、他の党は政権を担当することはできないとしている。

憲法で共産党しか執政を認めてないとすれば、人民が共産党を支持しなくなった時はどうなるのだろうか。国号が又変わるのかどうか誰にも分からないが、数千年続いた易姓革命の伝統を完全に打破するのは容易でない。

 

 Article posted by T.Dozono on 2004/11/1, page arranged/uploaded by Cindy on 2004/11/3.

 


 

L

堂園 徹

 

 

台湾の歴史を想う

 

上海の雑沓を歩いていると、ふと昔の台北に戻ったように錯覚することがある。路上では自転車とモーターバイクが途切れなく流れ、車やバスは少しの隙間があれば割り込んでいき、他の車と接触する寸前で車を止める。車の動きが少しでも止まると、その瞬間に歩行者が好き勝手に道路を横切って行く。誰も他を気にせず、自分の進む方向に突き進んでいく。この無秩序な人と車の流れ。

 

そして道路脇の建設現場からでる土ほこりと槌音。夏、湿気のこもった独特の匂いが鼻腔の奥で感じられる時に、どこからかテレサ・テンの柔らかな歌声(中国語の歌)が聞こえてくると、私は20年前の台北にタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われる。

 

 「台湾と中国は同じ民族であった」

―――何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれないが、少なくとも私個人の体験では、20年前の中国と台湾は全く別の国だという印象を持っていた。その頃の中国と台湾は政治制度と経済システムを異にしながら数十年歩んできたため、全く違う国と感じても不思議ではなかった。

 

それが20年を経た今、市場経済を導入した中国は外観だけを見ると急速な経済発展を遂げた昔の台湾と同じ現象を示しているので、台湾も中国も同じ民族であると改めて思うのである。

 

 

 一時は日本の領有下に

 

 日本人の中には、台湾はいつか中国に併合されるだろうと思っている人が少なくない。もちろん中国人もそう思っているし、武力を使ってでも台湾を統一すべきだと考える人もいる。

 

だが残念なことに、日本人はおろか中国人も台湾の歴史については知らない人が多い。

 

 台湾の正式名称は「中華民国」で、人民が選挙で自分達の総統(大統領)を選び独自の軍隊と外交権をもった実態としては独立国家である。これは英領植民地であった香港とは違う。香港の返還は香港の統治者である英国と中国の話し合いで決められたことで、香港住民の代表は話し合いに参加することすらできなかった。

 

 台湾の先住民は戦前の日本人が高砂族と呼んだ高山族である。台湾では「山地同胞」と呼称されているが、彼らは最初から山地に住んでいたのではなく、明、清の時代に大陸から渡ってきた漢民族によって平地から山地に追いやられ、漢民族は平地で先住民は山地と棲み分けが行われた。

 

 大航海時代、台湾を最初に発見したのはポルトガルで、この島を「フォルモサ」(美しい島)と呼んだ。その後スペインが乗り込んだがオランダがスペインを追い出してこの島を占有した。台湾は明の頃から福建省南部の人々が台湾海峡を渡って移住したので漢民族が多く住んでいた。だが明王朝はこの島を明の領域と認識していなかったので、オランダの領有には何も反応を示さなかった。

 

 台湾を漢民族が初めて支配したのは、「国性爺合戦」のモデルとなった明の遺臣・鄭成功である。彼は台湾からオランダを追い出し、台湾を拠点にして復明抗清を掲げた。しかし彼の死後、その子孫が清に降伏したので台湾は清王朝の領域に入った。

 

だが広い大陸を駆け巡ることを得意とする満州族の清王朝は、中央から遠く離れた海の向こうの島には関心がなく、台湾を「化外の地」として中華文化の及ばない所と捉えていた。

 

 日清戦争で負けた清王朝は台湾を日本に割譲した。この時台湾住民は、清王朝はしっかり台湾を管理してくれないばかりか、勝手に日本に譲り渡したとして非常に怒った。怒った住民は、台湾は清王朝の版図ではないとして台湾共和国と宣言し、日本の領有に抵抗したが日本軍に簡単に蹴散らされて台湾は日本の支配下に入った。

 

日本の最初の植民地だったので、日本は清王朝と違って台湾運営には非常に力を注いだ。病院や学校、鉄道などを作った。もちろん、これは台湾住民のためにしたことではないが、内乱や戦争が絶えなかった大陸と比べると、日本の半世紀に渡る植民地運営は台湾住民の民度を上げることになった。

 

 

 台湾独立運論の複雑な背景

 

 第二次世界大戦で日本が無条件降伏すると、台湾は当時の中国代表政権である中華民国に返還された。そして台湾を管理するために大陸から人がやってきた。この人たちを台湾では「外省人」と呼び、日本時代からいる住民を「本省人」と呼んで区別している。当時の本省人と外省人とでは民度に差があった。その上、本省人の言葉は台湾語で共通語は日本語であったため、中国の共通語である北京語が分からなかった。

 

民度の高い本省人が外省人に支配されたので、本省人の不満が高まり暴動に発展した。暴動を外省人は力で鎮圧した。こうしたことから本省人の中に、自分達は中国人ではなく台湾人だという意識が芽生え、そして台湾として独立しようという考えが生まれた。これが台湾独立運動である。

 

1949年、共産党は大陸から国民党を追い出し中華人民共和国を建国し、国民党(中華民国政権)は台湾に逃げ、そこで大陸反攻を唱える一方で台湾独立運動を徹底的に弾圧した。

 

 やがて台湾で民主化が起こり、台湾独立を標榜する民進党から総統が選出されるまでに民主化が進んだ。

 

一方の国民党は、自分達が中国の代表政権であると主張していた時は、中国共産党と敵対していたが、共に「台湾は中国である」という共通の認識の上に立っていた。しかし台湾が中華民国(Republic of China)ではなく、台湾共和国(Republic of Taiwan)と名称を変更すれば台湾はチャイナではなく全く別の国になってしまう。

 

本来なら不倶戴天の敵同士である中国共産党と国民党は、「台湾は中国である」という一点において、民進党を共通の敵と捉えているのである。

 

 現在、民進党の陳水扁氏が総統に再選され、独立(国名変更)に向けた動きが画策されているということで、最近、私の周りの中国人でも武力で台湾を統一すべきだと言う人が増えてきており、憂慮すべき状態が広がっている。

 

台湾独立はかつての日本の台湾領有とも深い関係があり、日本人としてもこの問題を理解し中国と台湾が平和裡に解決していくことを希求すべきであろう。

 

 

 Article posted by T.Dozono on 2004/10/8, page arranged/uploaded by Cindy on 2004/10/19.

 


 

K

堂園 徹

 

偉大であればあるほど矛盾は大きい

 

  日本人と中国人は顔かたちが似ているほどには似ていない。むしろかなり異なると言ってよいぐらいだ。この相違点は直ぐには、分からない。欧米人は人種が違い、宗教から食べ物まで日本とは異なるので、日本人は直ぐにカルチャショックを受けるが、時間が経つとそのショックは和らぎ異文化にも慣れてくる。しかし中国は直ぐにはカルチャショックは訪れない。

 

中国の宗教は仏教や道教で、寺や廟などは日本人にも馴染みがある。中華料理も日本人にとって馴染みのある食べ物である。言葉も音で聞くと全く異質であるが、字は同じ漢字なので見ると何となく分かったような気になる。

 

この分かったような気になることが、中国は外国であるという日本人の認識を少し曇らせてしまう。だが、中国は日本人にとっては紛れもない外国であり、その違いは時間が経つにつれて意識の表面に上ってきて、欧米とは違ったカルチャショックをじわじわと感じることになる。そしていくら馴染みのある中華料理でも本場の味を毎日堪能すれば、しまいには胃がもたれてきて中国の料理を受け付けなくなるように、中国に接する時間が長くなると中国や中国人にウンザリしてくることがある。

 

日本人と中国人の違い

 

中国に留学したことのある友人に聞くと、日本人留学生の半数以上が中国を嫌いになって帰っていくと言っていた。企業の駐在員と違って、留学生はより中国の庶民生活に触れる事が多い。タクシーではなくバスに乗り、大きな料理店ではなく露天の店で食べる。そうした生活をしているといやがうえにも中国人の日本人とはかなり異なる面が見えてきて、それが嫌悪感となり、中国に批判的になる。

 

実は私もかつて、中国にウンザリした一人であった。2年間台湾で暮らし、その間中国に1ヶ月旅行して、もう中国のことはコリゴリという思いで日本に帰ってきた。その後、機会があってアメリカで1年生活したが、台湾で日本人と中国人の違いを深く意識させられたようには、日本人とアメリカ人の違いを考えることはなかった。

 

その後、中国の歴史について知るようになると、今まで嫌悪していた中国人の特性にそれなりの理由があることを理解するようになった。現在の中国社会の在り方や中国人の民族性というものは、すべて理由があるという極めて当たり前のことに気づいた。

日本も現在のような国と社会になったのは原因と理由がある。日本人と中国人の違いは、日本と中国の気候風土、地理的条件、歴史的背景が異なることからきているのであって、それに優劣も良し悪しもないのだから中国を嫌いになり批判しても意味がないと考えるようになった。中国大陸で生きている人たちの立居振舞いや物の考え方、価値観、発想など、日本列島で暮らす人たちの基準でとやかく言うことはできないと思い知ったのである。

 

 ただ現在、日本が先進国の仲間入りをしており、日本と中国の相違点を挙げると、どうしても中国の遅れた面をあげつらうことになる。だが、そもそも先進国と非先進国というのは一つの経済区分であって、そこに優劣や善悪もないはずである。

 

日本が先進国になったのはそれなりの条件があったからであり、かつて中国が偉大な文明を構築できたのも、その環境があったからだと思う。仮に日本が中国大陸ではなく、アフリカ大陸の近辺に浮かぶ島国であったとすれば、今のような先進国になっていたであろうか。漢民族も中国大陸ではなくオーストラリア大陸にいたならば、あのように燦然と輝く文明を築くことができたであろうか。

 

そのように考えると、そもそもこの世界には本質的に優秀な民族とか優秀でない民族があるとは思えない。

 

中国を理解する一助に

 

 中国人の中には、戦前の日本が中国で行った蛮行から、日本人は本質的に残虐な民族と決めつけている人がいる。また日本人の一部は、今の中国がニセモノを乱造するので、中国人は根本的に遵法意識に欠ける民族と思っている。このような表面的なことだけをとらえて判断する意見が、中国でも日本でもマスメディアを通じて多くの人に伝えられている。日中関係の憂慮すべき現実でもある。

 

 日中関係というと、日本が中国を侵略した「歴史問題」がよく取り沙汰される。歴史というからには、現在に生きている私達は加害者や被害者の子孫であっても当事者そのものではない。当事者でない私達がすべきことは、なぜ加害者は害を加えるようなことをしたのか、どうして被害者は害を被ったのか、その背景と原因を考えて、今後は加害者にも被害者にもならない教訓とすべきであろう。それが歴史の役割であって、過去のことで非難したり謝罪するためではないと思う。

 

古代の日本は中国大陸の近くにあったお蔭で文明の多大な恩恵を受けてきたし、近代以降の中国は隣国日本から大きな影響を受けて今に至っている。どちらの貸しが多く、借りが少ないと言ったことではなくて、日本と中国は相互に影響しあい、相互に補完しあい、相互に必要としあう密接不離な関係で、好むと好まざるとに関わらず、これからも未来永劫につき合っていかなければならない相手であることは言うまでもない。

 

 本連載では日本とは異なる中国の社会現象や価値観などを書いてきたが、それらのすべての背後には必ず理由があることを述べたかったので、決して中国のネガティブな面を強調することが目的ではない。中国を見ていると偉大であればあるほど矛盾は大きく流される血は多いことを感じる。この振幅の差がとてつもなく大きい中国の理解に、本連載がわずかでも役に立てればと願う。

(この連載が今回でちょうど12回目と節目を迎えたので、本連載のスタンスを述べさせて頂きました)

 

Article posted by T.Dozono on 7/9/2004, page arranged/uploaded by Cindy on 12/9/2004.


J

 

堂園 徹

   

イデオロギーより飯・カネが大事

 

 上海でたまに、日本で有名な評論家やジャーナリストの講演会が行われる。講演内容の大半が中国の経済成長の賛美と共に、共産主義と資本主義のダブルスタンダードがいつまで続くかという日本の知識人らしい憂慮である。日本の識者の間では、中国は、政治は共産主義なのに経済は資本主義のシステムで運営するという矛盾を抱えたまま、いつまでそれが続くのかと疑問に思う人が多い。確かに普通の日本人から見ても、共産主義を放棄し、資本主義・民主主義に移行した旧ソ連は納得できる。

 

しかし当事者の中国人で、こうしたことを矛盾に感じている人は少ない。中国人は形而上のことよりも形而下のことに興味をもち、抽象的なことよりも具体的なことを好むと言われる。それは中国の人々にとって長い間、どうやってご飯を食べていくかということだけが大事で、それ以外のことを考える余裕などまったくなかったことと関係している。

 

 

保税区のニセモノ売り

 

上海に保税区がある。通常、外国から来る輸入貨物は通関して関税を払うが、保税区に入る貨物は関税を払わないで「保税」のままで置いておくことができる。保税区から出すときに、通関して関税を払う。保税区は税関が管轄する特殊なエリアなので、中に入るにはゲートを通らなくてはならない。このゲートに検問所があって、税関職員が保税区に出入りする貨物をチェックしている。時に武装警察がいることもある。これは税関職員が貨物運送業者などから賄賂をもらって不正を働かないかどうか、武装警察に監視させるためである。

 

税関職員による厳しい検問と、その上に税関職員が不正行為しないように、武装警察までくりだして二重のチェック体制を敷いている保税区であるが、この保税区の中で堂々とオメガの時計が50元(650円)プラダのカバンが30元(390円)で売られている。

 

保税区のゲートは数ヶ所あるが、ある箇所のゲートを入ると直ぐ左横に2階建てのショッピングセンターがある。その建物の天井から大きな垂れ幕が掛かっていて、そこには「偽物を店で並べて売ることはやめよう」と書いてある。その垂れ幕の下で、たくさんの店員が「安いよ」と言って有名ブランドの時計やカバン、サイフ、ネクタイ、ベルトなどを懸命に売っている。その建物のすぐそばで、税関職員や武装警察が貨物の出入りを厳しくチェックしているのに、である。こうした光景を見て日本人は不思議に感じるだろうが、当の中国人は何とも思っていない。

 

税関の建物に入ると、そこには壁一面に大きく「為了人民服務」(人民に奉仕しよう)と書かれた文字が目に飛び込んでくる。柱には「文明」「禮貌」と言ったポスターが張られてある。これは、きちんと礼儀正しい態度で人民に接しよう、と税関職員にマナー向上を唱えているのである。

 

そのポスターの下の受付カウンターには人の山ができて、それぞれが申請書類を持った手を、一人の受付担当職員の前に突き出している。本来なら一人一人並んで書類を提出したほうが効率はよいのに、誰も並ぶ人はいないし、職員も「並んでください」とは言わない。職員が一つの書類の処理が終わって顔を上げると、その瞬間一斉に書類を握ったたくさんの手が、顔の前に突き出される。職員はひどく恣意的に目に付いた書類を一つわし掴みにすると、また机にうつむいて処理にかかる。その間、待っている人たちは、職員の目に付きやすい位置をめぐって、押し合いへしあいをし、時には口げんかに発展することもある。

 

 

 

飯をくわせてくれる英雄

 

中国の大衆にとって、昔はご飯を食べる事、今はおカネを儲ける事が最大の関心事で、お上の掲げる「口号」(スローガン)と、自分たちが生きていくための営みは関係ないと思っている。だから一般の中国人は、政治は共産主義なのに経済は資本主義であることになんら矛盾も不思議も感じてはいない。

 

魯迅は、「中国人の性格はいい加減なところがあるから、日本人の生真面目さを学ぶべきだ」と言ったが、中国人は何事も理念よりも現実に合わせてモノを考えると言うある意味のいい加減さを持っているとすれば、日本人は理念と現実があまり乖離しないようにという生真面目さを持っている。

 

中国では多くの人間に飯を食べさせれば英雄になる。「乱世出英雄」で乱世に多くの英雄が現われるのは、世が乱れて食べ物がなくなるので、食わしてくれる人間が英雄になる。その中で一番多くの人間に飯を食べさせることのできる英雄が、王朝を作って皇帝となる。

 

毛沢東は共産主義のイデオロギーを振りかざすことで、蒋介石の国民党を追い出せたのではない。農民や労働者は、蒋介石よりも毛沢東のほうが飯を食わしてくれる英雄と思ったから、共産党を支持したのである。マルクスレーニン主義を理解しそれを信じたからではない。イデオロギーより飯だったのである。

 

中国の長い歴史の中で、ならしてみれば、共産党ほど安定した統一政権として、多くの人間に飯を食わせることに成功した政権はかつてなかった。

 

 

「社会主義的市場経済」

 

70年代に共産党は多くの人に飯を食べさせることができたが、しかし人民の生活はまだ貧しかった。そこでケ小平は改革開放を断行した。その論理は、共産主義は人民の生活が平等に豊かになることを目指しており、それには計画経済よりも市場経済の方が優れていれば、市場経済に移行しようというのである。そして「社会主義市場経済」という新しい概念を作りだした。中国人らしい現実に即したイデオロギーの換骨堕胎である。

 中国の知識人はこれに論理的矛盾を感じていない。ましてや一般大衆にすれば、そもそも共産主義の何たるかが分かって共産党を支持したのではないのであるから、形而上の主義よりも、日々の暮らしが良くなりさせすればよい。それはご利益さえあれば、仏教も道教も截然と区別せず、孔子も関羽も一緒くたにして拝む宗教観と同じでイデオロギーよりも飯でありカネであって、中国人は極めて現実的で、それを日本人の生真面目な思考で理解するのは、簡単ではない。

 

 

(Article posted by T. Dozono on 3/8/04, page arranged/uploaded by Cindy on 5/8/04)


 

I          

 

                            堂園 徹  

 

                            最初に疑いあり

                         「身分証社会の 国

 

昔、台湾の大学卒業証書を見た時、そこに本人の写真が貼られてあるのにびっくりした。日本の卒業証書は卒業式という儀式に必要なだけであって証書そのものには、何の法的効力もない。そのため卒業証書は記念のために保管しておくだけで、学歴を証明する必要がある場合は大学から卒業証明書を発行してもらう。

 

 台湾の場合、卒業証書はそのまま卒業証明書でもあるので、そこに本人であることを証明する写真が貼りつけてある。就職する時には、その卒業証書を見せそのコピーを渡すことで学歴を証明する。これは大陸の中国でも同じである。

 

 

必ず写真付き

 

 中国では証明書と言われるものにはほとんど写真が添付されている。例えば結婚は、民生局という役所に行って登記しなければならない。その際、赤色の観音開きになっている「結婚証」が二つ発行され、夫婦それぞれが所持する。開けると夫婦二人の写真が貼られ、それぞれの名前と生年月日が書かれ、「中華人民共和国の婚姻法に拠って結婚登記したことを証明する」と記載されている。

 

 十数年前、私は中国で中国人と結婚してこの赤い「結婚証」をもらった時、てっきり記念に持つものと思ったが、それが直ぐに間違いであることが分かった。

 

新婚旅行で北京に行った際、ホテルに泊まろうとして同じ部屋に泊まることを拒否された。この時初めて、中国では男女が同じ部屋に泊まることを法律で禁止していることを知った。共産主義社会では倫理的にも高い道徳観を持つことが要求されるので、男女が同じ部屋に泊まる場合は夫婦であることの証明が必要だったのである。(今はあまり厳しく言われなくなったと聞いている)それにはあの赤い「結婚証」が必要で、記念に発行しているのではなかったのである。それを知らなかった私は「結婚証」を持ってこなくて、北京の知人に頼んで彼が勤める旅行会社に我々が夫婦であることを保証してもらって、ようやくホテルにチェックインすることができた。

 

 日本では写真付きの証明書といえば、運転免許証とパスポート以外に直ぐには思い浮かばない。台湾も中国も証明書には必ず本人の写真が貼ってあることに、日本人は不思議な感じがするのだが、むしろほとんどの証明書に写真を貼っていない日本の方がおかしいのかもしれない。

 

 日本では結婚を公に証明する事があまりないので結婚証明書というものはないが、それに当たるのが戸籍謄本であることを香港で働く時に分かった。香港政府に就業ビザを申請した時、配偶者には家族ビザが出されるが、間違いなく配偶者である証明が必要と言われ、結婚証明書を要求された。そのため、駐香港日本領事館に日本の戸籍謄本を持っていき戸籍謄本から「二人は結婚していることを証明する」という内容の英文の証明書を発行してもらった。

 

 しかし戸籍謄本は勿論、英文の結婚証明書にも本人の写真は貼られていない。これでは他人の名前を騙って、その人の証明書を取ることが可能である。

    

横行する偽の証明書

 

 私は大学の卒業証明書を郵便で取ったことがあるが、卒業年度と学科名、自分の名前を書いて送っただけで、大学から証明書が送られてきた。大学側は請求者が本人かどうか確かめることなく証明書を発行している。しかも写真が貼られていないので他人が使うこともできる。役所では戸籍謄本や住民票など本人の確認もせず発行している。そうすると日本では他人の名前を使って、その人の公的証明書を使って、その人になりきるのが簡単な社会と言える。過去に、北朝鮮のスパイが日本の本物のパスポートを所持していた事件があったが、それは他人の戸籍謄本を使って取得したものだ。

 

 日本では婚姻届出には証人二人の判子が必要であるが、この証人欄に適当な名前を書いて、その苗字の三文判を買って押せば済むし、役所も届ける人が間違いなく本人かどうか確かめないので、他人の名前を使って偽装結婚することも難しくない。

 

 このようなことは中国人にとってはとても不思議である。何故なら中国ではさまざまな場面で本人確認のために証明書が必要となるからである。飛行機に乗る時、ホテルに泊まる時、携帯電話を申請する時などは身分証の提示が必要になる。住居の賃貸契約でさえも、大家も賃借人も両方必ず身分証を出して、お互いに本人であるかどうか確認し、その上契約書には身分証のコピーまで添付する。中国の法律では18歳以上が成人と決められ、すべての成人には必ず身分証が発行され、常に携帯することが義務付けられている。

  

 証明書・身分証でがんじがらめになっている中国だからなのか、偽の証明書が横行している。ある時、路上で配られている名刺を受け取って私は呆れてしまった。そこには「どのような要望の証明書も作ります」と書いてあり、名刺の裏には、運転免許証、結婚証、離婚証明書から、戸籍、北京大学の卒業証書、修士号や博士号、医者や弁護士の資格証明書までサービス項目として記載してあった。内容に驚くと同時にこのような名刺を公然と昼間から路上で配っていることにも呆れた。

 

 

人相学が発達した理由

 

 こうしたことを見ると日本は信用を前提とした信用社会で、中国は最初に疑うことから始まる不信社会と言える。日本は島国で多くは同一民族と暮らしているので、相手を疑うことよりも、信用することの方がうまく社会が機能することからきていると思われるが、人間関係には緊張感が生まれない。一方、大陸では異民族と常に接して食うか食われるかの緊張感の中で、自分を守るために先ずは他人を疑うことから始まったと言える。だから中国人の方が人間を観察する力は鋭く、人相学は中国で発達した。

 

 中国でのビジネスに当たり、日本人はよく債権回収が難しいと言う。日本人は商品を受け取ればお金を払うのが当たり前と思っているが、中国ではそのように思っていない人がたくさんいる。だから商品を納めればお金はもらえると思って気を抜く日本人と違って、中国人はお金がもらえるまで緊張が続く。人間関係に緊張感の少ない日本人より中国人の方がずっとしたたかであるのは当たり前のことだと言える。

 

 

(Article posted by T. Dozono on 12/7/04, page arranged/uploaded by Cindy on 18/7/04)