私の演習で英語の社会心理学のテキストをそのまま使おうと思っている。そう判断した経緯を以下に書いてみる。 私が学生だった頃には、テキストを使うような講義は、覚えている限りでコンピュータ関連の授業しかなかった。授業といえば教官の勝手な話を聴くだけだった。良い授業も多かった。むろんひどい授業も少なくなかった。「ひどい授業」とは、教官が最近考えていることを話すだけ、という意味である。むろんその先生の講演会なら構わない。が、学生が授業として学ばなければならないこととは、より一般性のある知識であるはずだ。 私自身も教官になってからは「勝手に話す」講義をしている。「勝手に話す」といっても、私の判断で「学生が身に付けるべき」素材を選びながら内容を配列しているつもりである。だから一般性のない内容の授業をしているという認識はない。 ただどうも、最近はこのような「勝手に話す」授業がうまく機能しなくなったように感じている。「学生が知っておくべき」事柄は幅広い。私はそのすべてに精通している訳ではむろんないから、内容を定期的に update することが難しい。のみならず、良いバランスだろうと私が思っても、ひとりよがりな判断である可能性も高い。 できれば「標準的なテキスト」に合わせて授業をすることが望ましい。そうすればテキストを読みながら、学生は予習復習もできるだろう。 ただし大学の授業では「良いテキスト」を見つけることが難しい。この点は文科系だけでなく理科系でも同じらしい。 良いテキストがない理由の多くは出版事情にある。大学のテキストによくあるパタンは、7〜8名の先生が集まってあまり厚くないテキストを書く、というものである。7〜8名というのは、その人数の先生が自分の講義のテキストに採用して学生に買わせれば採算が取れることに由来する(学生数の多い大学で教えている先生方ならより少ない人数でよい)。私もこの手のテキスト書きに加わったことがあるけれど、正直言って無意味なテキストになる。第1に「売れる値段」にするために分量が少なくなる。だから説明を大幅に切り詰めざるを得ず、「こんなもん読んでも分かる訳ない」と執筆者が思うような代物になる。第2に多人数で書くので内容の一貫性や部分間の調整がとれない。ひどいテキストであることは分かっていても、売れないと困るので執筆者の先生は必死で学生に買わせることになる。結果として、学生に買わせることだけを目的にしたテキストになる。学生がいい迷惑である。 テキスト事情は欧米と日本とで大きく異なる。欧米(特に米国)では内容が標準化された大学生向けのテキストが多数出版され、厳しい競争を繰り広げている。生き残ったテキストは内容が優れている。分量も十分多く、「読んで分かる」ように出来ている。しかも教師向けのマニュアルや学生向けのガイドも売り出されている。ちょうど、日本の高校までの教科書(の分厚い本)のようなテキストが流通している。 重要なことは、欧米のテキストが内容的に優れていることである。正直言って、(少なくとも社会心理学について言えば)欧米並のテキストを書ける学者はほとんどいない(「良いテキストを書ける」ことは「良い研究者である」こととは別である)。欧米のテキストは1、2名の著者が書くので内容の一貫性もある。さらに、テキストがカヴァーする範囲が標準化されており、テキストによる特色はあるものの、買い手に安心感を与える内容になっている。 米国でこうしたテキストが流通している理由は次による。第1に英語で書かれているため、市場が英米だけでなくアジアなど世界各国に広がっていることである。だから採算がとれる。第2に、各大学は「良い教育をしている」ことを目に見える形で示す必要があるので、テキストを明示する必要がある。テキストを明示せずに「良い授業をしている」と言っても説得力がないのである。 こうした事情のため、日本でも「良い大学」では英語のテキストを使っているところが多い。むろん大教室の講義ではなく、演習程度の規模の授業の場合である。 問題は埼玉大学で英語のテキストを使って授業が成り立つか、ということである。私は「無理」と考えていた。 が、最近、英語のテキストを授業で使っておられる先生が教養学部にもいることが分かった。あながち「無理」とは言えないかも知れない。 そこで2001年度は、演習で英語の社会心理学のテキストを使ってみることにした。 英語のテキストを使う利点は以下だと私は考えている。第1に内容が豊かであることである。内容的には日本語のどのテキストも及ばない。第2は世界標準的な、頻繁に更新された内容を学ぶことができることである。将来、海外の人と交流が出来たとき、相手も同じ教科書で勉強したかも知れない。第3は、付随的に英語力がつくことだろう。将来は中国や韓国の人とも、中国語や韓国語ではなく英語で交流することになると思う。 |