「マイノリティ問題研究会」(2002.4.23

 

「虹のメタファー」をめぐって

――陳天璽『華人ディアスポラ』を読んで――

 

福岡安則

 

陳天璽さま

 ご高著『華人ディアスポラ――華商のネットワークとアイデンティティ』をお贈りいただき,ありがとうございました.「マイノリティ問題研究会」の席上でコメント×リプライをするという約束ですが,肩肘張った書評のスタイルではなく,気楽にメールを書き送るつもりで書いてみようと思います.

 ただし,「マイノリティ問題研究会」のみなさんで,『華人ディアスポラ』を読んだ人は少ないと思いますので,メンバーへのサービスも忘れないようにしたいと思います.やっぱり,定価6,300円というのは,よほどの関心がないと,個人では購入するのを躊躇する値段ですよね1)

 

1 問題意識の確認

 

 まず,陳天璽さんの問題意識を確認しておこうと思います.

 

 過去の研究において,世界に散在している華商はネットワークを持っているものと見られている.特に,アジア経済の成長の原因解明を行った研究などにおいて華商は注目を浴び,彼らはエスニックな繋がりによって形成されているネットワークを活用し,情報や資本の流通を行っているからこそ,急速に経済成長したのであると分析された.また,そうした見方から,華商が成長著しい中国の経済と一体になって「大中華経済圏」を形成し,世界的な影響力を持つアクターになるであろうと考えられ,ある意味では「脅威論」にまで発展している.……

 しかし,果たして華商ネットワークは確固たるものとして存在するのであろうか.もし存在するなら,それはイメージされているような排他的な性質を持つエスニックな繋がりなのであろうか.……華商ネットワークというものは意識的に作られ,そして実質的なシステムを形成しているというよりは,むしろ移民である彼らに密着した生きる知恵なのではないか.……家族主義,「信用(xin yongシンヨン)」,「関係(guan xiグワンシー)」,礼,仁などのさまざまな価値観は彼らの行動規範であり,そのような彼らの生活様式が外部の者によって華商ネットワークと見なされたものと考えられる.……

 こうして観察者によって,ネットワークの有効性が認識されたため,近年になり,華商の間でネットワークを意識的に形成しようとする動きも見られるようになった.(陳 2001: 14-52)

 

 『華人ディアスポラ』はこのような問題意識(=仮説)を検証することをめざして書かれたわけですよね.ただし,350頁もの分量があるので,ちくいち内容の紹介をすることはしないで,本題にはいることにしましょう――サマリーをつくるのだったら,著者である陳天璽さん自身のほうがはるかに適任のはずですから3)

 

2 「虹のメタファー」は比喩をこえうるか

 

 さて,読み終えた感想ですが,なにぶんぼくの知らない世界についてのことですので,いろんなことが目新しいことでした.ただ,読後の違和感として残ったものがあります.それは,陳天璽さんが「虹のメタファー」と呼んでいるものをめぐってです.

 陳天璽さんは,「虹のメタファー」について,つぎのように書いています.

 

 筆者は,……ネットワークの理論をはじめ,関連した先行研究に華商ネットワークを浮かび上がらせるモデルを模索したが,そうしたものを見出すことはできなかった.むしろ,そのプロセスにおいて筆者は,華商のネットワークとアイデンティティが虹という自然現象と類似していることを発見した.筆者が提示する虹のメタファーによって,華商のネットワークとアイデンティティの実体【→実態】を描き出すことが可能であり,しかも理解を深めることができる.それに加えて,本書の仮説である,華商ネットワークの形成の無意識性をも説明することができるのである.(16頁)

 

 陳天璽さん自身は,「華商のネットワークとアイデンティティが虹という自然現象と類似している」と述べており,そのかぎり,「虹のメタファー」は対象を捉える方法ではなく,たんに,対象の性質を比喩的に表現するものと考えているように思われます.その点,ちょっと残念な気がしました.というのは,「虹のメタファー」というのは,社会科学のひとつの方法として提示しているのかなと期待していたからです.

 ちょっと横道にそれるけど,陳天璽さんは,「ハーバード大学における〔1997年からの〕3年間に及ぶ恵まれた時間と空間,そして世界各国から集った著名な先生方との議論は,私が本書の構想を練る上で貴重な糧となった.虹のメタファーも,まさに私が,ボストンに流れるチャールズ川や橋を眺めながら散歩していたときに浮かび上がったアイディアであり,さらに友人たちと議論を重ねていくなかで熟成したものである」(307頁)と述べています4)

 「虹のメタファー」というアイディアが“散歩中”に思いついたという状況は,よくわかります.ぼくなども,思いつきは,たいてい,電車のなかだとか,自転車に乗っているときだとか,寝入りばなだとか,そんなときです.そういうときには,大急ぎで,アイディアをメモします.メモをしないと忘れてしまうからです.――自転車で家に着いたら忘れてしまっているような思いつきというのは,たいしたものではない,という考え方もありえますが,ぼくはそうは思わない.何度でも思い起こせてしまう観念というのは,ありふれたものでしかない.あるときに,フッと湧いてでて,そのときを逃したらもう思い出せないもののほうが,アイディアとしては奇抜であり,すごいものでありうるのだと思うのです.

 ただ,比喩というのは,そのままで,はたして社会科学のひとつの方法たりうるかというと,ぼくにはちょっと疑問です.

 陳天璽さんは「虹の持っている性質を比喩として用いることにより……華商のネットワークが持つ特性を説明することができよう」として,いくつかのことがらを述べています.たとえば,「虹は,大気中にある水滴が太陽などの光線を浴び」ることで現象するが,「まず,水滴は,華商の経歴に喩えることができる.……第1に,移住する際に超える海の水滴,第2に,家族との別れや新しい環境での苦労により流される涙の水滴,そして勤勉な労働によって流される汗の水滴である」(66頁).あるいは,「1998年に起こったインドネシアの排華運動のケースでも明らかなように,華商の繁栄は一定以上の注目を浴びると,嫉妬や脅威論に繋がり,社会が危機的状態に陥るとスケープゴートになり,その存在価値が裏目に出てしまう.その結果,華商のネットワークは機能を失う.つまり,外在的な注目を浴びすぎた場合,被害を避けるために影を潜めたり,消失したりする.この現象は虹が出現するのに必要な水滴と光の関係と同様である.光線を一定以上浴びると,水滴は蒸発し,空に架かっていた鮮やかな虹は消えてしまう.華商のネットワークもまさに,虹という自然現象が持つ性質に類似した特質を持っているといえよう」(68頁).――このような“比喩的説明”は,残念ながら,社会科学の説明とはならないでしょう.

 とはいえ,「華商アイデンティティの多元性と虹の重層性」という見出しのもとで陳天璽さんが展開している議論は,たんなる比喩をこえる可能性をもっているように思われます.方法の問題にもからんでくると思われますので,長くなりますが,みなさんに紹介しておきましょう.

 

 虹ははっきりと分けられない7つの色が重層を成してアーチ状に形成されたものである.この多様な色で形作られている虹のように,華商は多様なアイデンティティを持ち,彼らはさまざまな所属,帰属意識や人間関係の複合のなかで活動を行っている.いわゆる華商ネットワークの性質は,こうした重層的な関係の結果成立しているという点で,7色のアーチが重なって形成される虹が持つ性質と類似している.

 華商のネットワークを構成している要素を判別することは容易ではない.それは人や時間,場所,そして遂行する事業の内容によってさまざまに変化する.しかし,あえてネットワークの構成要素を虹が形成される7色に喩えるならば,以下の7つのカテゴリーに大別されよう.(68頁)

 

 1.居住国との繋がり」――「まず第1に,居住国との繋がりは華商ネットワークを形成する基本的な要素である.これについては,居住国国籍をもとにした法的な繋がりである側面が大きい.現在,華商は移住先の国籍を取得した者が多数を占めている.特に国籍法で出生地主義を採っている東南アジアの華人に関しては,現地の国籍を持っている者が大部分を占めているといわれている」.「香港には,さまざまなバックグラウンドを持った人々が集まっている.……華商たちは同じ民族的背景を持ち,同じ広東語を話し,同じ食文化を享受していても,カナダ人であったり,アメリカ人であったり,マレーシア人であったりと法的な帰属はさまざまである」.「居住国に持つ法的,社会的な繋がりによって形成される帰属意識は世代の交代とともにアイデンティティの重要な部分を占めるようになっているのである」(69-70頁).

 2.『中華』文化との繋がり」――「第2に,『中華(zhong huaゾンホァ)』との民族的,文化的な繋がりがある.これは前に述べた国籍をもとにした法的な繋がりとは異なる次元のアイデンティティである.……例えば,香港や台湾からカナダへ渡った中国系移民は,カナダの国籍を持っていても民族的には中国系であるという帰属意識を持ち,そして文化的には『中華』文化に愛着を持っているのが一般的な傾向である」.「中国,香港,台湾,シンガポール,フィリピン,アメリカ,日本などの華人はみな,法的なカテゴリーでの帰属は違っていても,このカテゴリーで同じ『中華』の民族的,文化的背景を分かち合うものとしての繋がりを持っている」(70-1頁).

 3.出身地の繋がり」――「第3のカテゴリーは,出身地に基づく繋がりである.国が広大であるがゆえに生ずる風習文化や方言の差異のゆえんか,中国人にとって出身地のアイデンティティは国家のアイデンティティよりも優るものであるといわれている.世界の華人コミュニティを見ても,出身地をベースにした組織が最も多いことは一目瞭然である.特に一世にとっては,同郷の集まりはとりわけ強い繋がりとなる.類似した生活経験を持ち,ましてや同じ方言を話すもの同士は親近感が湧きやすく,信頼関係や相互扶助の意識も強まりやすい./よって,華商のネットワークという場合,それはしばしば出身地をベースにした繋がりを指していることが多い」(73頁).

 ただし,近年の新しい移民の場合は,香港系,台湾系,東南アジア系,さらには,中国の福建省からといった「『新しい出身地』の繋がりがより実質的な機能を持ち始めている」(74頁).

 4.『家族』の繋がり」――「第4のカテゴリーとして家族的な繋がりが挙げられる.華人が『家族』という言葉に対して抱くイメージは,現代一般的にいう核家族という単位を超えている」.「特に,政府の保護下にない移民の経験を持つ華商が最も信頼し頼りとするのは,血の繋がりを持つ家族である.それは,華商企業を分析した場合,大多数の会社の所有権が親族で占められていることからもうかがい知ることができる」.「次には,友人,知人,さらには仕事仲間と家族的な関係を構築することがしばしばある.……華人同士の間では,交際期間の長い友人同士や,信頼関係が構築された者同士は,相手を擬似家族として扱う」.「さらに,より拡大された家族的な関係は,宗親(lineage)である.宗親会は,同じ苗字を有する人々を基本として形成される組織である.直接的な血縁関係がなくとも,先祖を共有するであろうという理由付けで連帯関係を構築している.……同じ祖先を持つ者と限定しているため,非常に排他的なイメージを持たれるが,……近年,会への参加者は厳密にいう宗親以外の人もいるうえ,大会への参加者は『付き合いのため』といったように人的なネットワークの構築や持続を目的にしている傾向が強い」(74-6頁).

 5.出身校の繋がり」――「第5のカテゴリーとして,出身校の繋がりが挙げられる」(76頁).「例えば,ハーバード大学の大学生で結成されている中国同学会(Chinese Students Association)は,アメリカ出身者や移民二世を中心として結成されている.彼らの活動は,自分たちのルーツを常に意識したものである」.「また,近年の移民やその子孫は高学歴者が増えており,出身校の繋がりはますます強力な影響力を持ち始めている.しかも,高等教育を受けている時期に形成された繋がりは,興味や専門領域が類似している場合が多く,卒業後仕事についてからも協力し合う可能性が高い」(77頁).

 6.同業者の繋がり」――「第6番目のカテゴリーとして,企業組織や同業者間のネットワークが挙げられる.華人社会においては,商会がこの代表例である.……これは,かつて,いわゆる『傘型組織(umbrella organizations)』として華人社会を統合する機能を持ち,しばしばビジネス以外の需要にも応え,しかもコミュニティの代弁者としての役割も演じてきた.その代表例として,中華総商会が挙げられる.近年の経済のグローバル化とともに,商会の活動も国際的なスケールで行われるようになっており,特に世界華商大会が注目を浴びている」(78頁).

 7.信条,趣味そして余暇の繋がり」――「最後に7つめのカテゴリーとして挙げられるのは,より日常生活に密着した信条,趣味,嗜好を通じた繋がりである.それは例えば,宗教,芸術,音楽,運動,その他の趣味などを共有することによって築かれた繋がりである.これは,華人社会において新たに強まっている繋がり」である(78頁).

 そして,陳天璽さんは,つぎのように総括しています.

 

 以上において,筆者は虹が7色で形成されるという自然現象に照らして,華商の繋がりを7つのカテゴリーに分けて見てきた.しかし,華商のネットワークが必ずしも,ここに挙げた7つの繋がりに分類できるというわけでもなければ,こうした繋がりが7つそろわないとネットワークが形成されないという厳密なものでもない.むしろ,虹が7色であるといわれながらも,はっきりと識別できないように,華商のネットワークも多方面にわたる繋がりとアイデンティティが統合され,きわめて曖昧なまま形成されているのが実状である.……(80頁)

 

 陳天璽さんが「虹のメタファー」というものをどのように思い描いているかを見てきたわけですが,もしぼくがぼくのアイディアとして「虹のメタファー」を思いついたとしたら,もうすこし違った論理の展開を考えるでしょう.

 どう説明すればいいのかな.囲碁をもちだしてみましょう.囲碁のプロ棋士というのは,「次の一手」は「感覚」で思いつくのだそうです.というか,感覚でこの手がいいはずと思ったことが,ほぼあたっているのだそうです.しかし,彼ら/彼女らは,「感覚」だけでは次の手をうたない.その感覚が正しいかどうかを「読む」のだそうです.次の一手をうつには,「読みの裏付け」が必要なのです.

 「虹のメタファー」という「喩え」は,いわば「感覚」にあたるのだと思います.たぶん,正しい可能性が高い.でも,「読み」が必要です.調査研究における「読み」は,ひとつには「分節化」であり,ひとつには「比較」であると思います.「読み」,すなわち,「分節化」の手続き,「比較」の作業を丁寧にやっておくことによって,ありうべき批判に耐えうる成果を獲得できると思うのです.

 そういう観点から,陳天璽さんの述べてきた「7色の虹」の喩えをふりかえってみると,分析の次元がかならずしもきちんと分節化されているとは言いがたいように思われます.

 「7つのカテゴリー」は,華商の“ネットワークを繋ぐ媒介”とも読めますが,“華人のアイデンティティを構成する項目”とも読めます.ネットワークを論じているのか,アイデンティティを論じているのかが,曖昧になっていると思われます.

 「1.居住国との繋がり」は,華商のネットワークを媒介するファクターではなくて,むしろ,華人・華僑たちの帰属意識を問題にしているのであり,アイデンティティを構成する項目でしょう.つまり,居住国への帰属意識を共有するから,それを媒介にしてネットワークを形成するというのではなく,居住国への帰属意識を異にしながらも,それを超えてネットワークを形成する,という論理構造になっていますよね.――ただ,陳天璽さんとしては,“華商ネットワークは排他的だ”という外部からの批判を気にしてか,華商たちの多くが居住国の国籍を取得し,居住国への愛着を持っているということを強調したくて,「7つのカテゴリー」のトップに,「居住国との繋がり」をもってきたのかな,とも思いました.

 「2.『中華』文化との繋がり」は,華人・華僑たちにとってのひとつのアイデンティティであると同時に,華商ネットワークを媒介するファクターでもあるものとして取り上げられています.「3.出身地の繋がり」も,同様というか,華商ネットワークを形成するのは,実質的にはこのファクターだと説明されています.

 「4.『家族』の繋がり」ですが,この最後に「宗親会」に言及され,「近年,会への参加者は厳密にいう宗親以外の人もいる」――具体的には,1996年に「台湾で開かれた陳氏宗親会では,陳氏以外の華人のみならず,白人(イギリス人)の参加者さえいた」(112頁)――のであって,けっして「排他的」ではないということが強調されていますが,これは,華商ネットワークは排他的ではないということを言いたいという気持ちが先走った記述のように,ぼくなどには感じられました.「宗親会」は,同じ苗字をもち,祖先を共有するとみなされる人びとの集まりなわけでしょ.だから,それ以外の人がその会に出席することがあったとしても,それは正規のメンバーとしてではなく,客としてではないのですか.

 「5.出身校の繋がり」「6.同業者の繋がり」「7.信条,趣味そして余暇の繋がり」の3つのカテゴリーについては,陳天璽さんの記述を読むかぎり,これらのファクターが独立して機能していないということが,ぼくにとっては印象的でした.ここで述べられていることは,お互いに「華人であること」を前提とした上での「出身校の繋がり」「同業者の繋がり」「信条,趣味そして余暇の繋がり」なんですよね.華人・華僑あるいは華商たちが,華人・華僑以外の人たちと「出身校の繋がり」「同業者の繋がり」「信条,趣味そして余暇の繋がり」をどの程度形成しているのか,さらに,ビジネス上の関係をどの程度取り結んでいるのか.もし,それが閉ざされているのであれば,「出身校の繋がり」「同業者の繋がり」「信条,趣味そして余暇の繋がり」はそれ単独では機能していないということになる.

 陳天璽さんは「華商のネットワーク」は「確固たるもの」じゃないんだ,むしろ「曖昧なもの」なんだということを証明したがっているように思われますが,対象の「曖昧さ」を言うためには,用意する概念に曖昧さが残っていてはまずいと思うのです.

 ぼくだったら,まず,(1) 華人・華僑のアイデンティティ問題と,(2) 華人・華僑のネットワーク形成の問題と,(3) 華商のネットワーク形成の問題を区別しようと思います.

 (1) 華人・華僑のアイデンティティ問題となると,陳天璽さんが「7色の虹」のメタファーとして取り出した,「居住国」「『中華』文化」「出身地」「『家族』」「出身校」「同業者」「信条,趣味そして余暇」といったかたちでのアイデンティティの多元性がいっぽうで問題になるでしょうし,たほうでは,「居住国」への帰属意識と「『中華』文化」への帰属意識のからみあいがどうなっているかという意味でのアイデンティティの多様性も問題になってくるでしょう(後述).

 (2) 華人・華僑のネットワーク形成の問題は,アイデンティティ問題とは分析的に別の問題と考えたほうがいい,とぼくは思っています.ある人があることがらを自分のアイデンティティのヨリドコロとしているからといって,それを共有する人たちとのあいだでつながりを作っていくかどうかは,別の問題だからです.――そのうえで,いかなるアイデンティティ項目が人と人とのネットワークを繋ぐ媒介として機能しているかを,インタビューのデータなどをとおして,取り出していく必要があるでしょう.ハーバード大学の「中国同学会」の例は,「同じ出身校」という項目がそれ独自のファクターとしては機能せず,むしろ「『中華』文化」の共有というファクターがネットワーク形成の磁場を構成してしまっている,というふうに捉えられるべきでしょう.そして,そうなってしまうのは,なぜか,が問われなくてはならないはずです.

 さらに,(3) 華商のネットワークとなると,もうひとつ別個のことがらになるはずです.華人・華僑として人と人とのあいだにつくったネットワークのうち,どんなカテゴリーにもとづくネットワークがビジネスのために活用・動員されているのか,と.

 そのような分節化をふまえて,華人・華僑のアイデンティティとネットワーク,そして,華商のネットワークの特徴をみていったときに,なにが言えるのか.それを提示してほしかったと思います.

 ぼくには,陳天璽さんは,「華商のネットワーク」はみんなが言うほど「確固たるもの」じゃないんだ,「排他的なもの」じゃないんだ,ということを主張したいという気持ちが前に出すぎているように思われます.――ぼくが部落差別問題にかかわってきて思うことですが,よく啓発のための講演の場面などで,「同和地区の人たちは,地区外の人たちと,なにも違わないんだ」ということが強調されることがありました.それを聞いている聴衆の顔は,けっして納得しているようには見えませんでした.「なにも違わない」「違わない」ということを強調すればするほど,聴衆の心のなかには,“そこまで懸命になって否定するということは,やっぱり,なにかが違うからじゃないか”ということと,もうひとつ,“違うことは悪いことだ”という確信がよりいっそう強化されていっているように思われたのです.

 「華商のネットワーク」をめぐる言説の争いも,おなじ構造をもっているのではないかと思われます.そこで必要なのは,「華商のネットワーク」は「確固たるもの」ではない,「排他的なもの」ではない,と主張することではなくて,むしろ,華人・華僑・華商の人びとがどんな生活を営み,いかにビジネスを展開しているかを〈再現〉してみせることなのではないでしょうか.

 価値観の問題にしても,陳天璽さんが「華商アイデンティティの多元性と虹の重層性」で述べてきたことを素直に受け止めれば,華人・華僑・華商たちは,「『中華』文化」といった文化的要因,「出身地」という地縁的要因,宗親会などの(擬似)血縁的要因にもとづいて,グループやネットワークを巧みに形成している,ということだと思うのです.それは一言でいえばどういう言葉でいいあらわされるのかよくわかりませんが,たとえば「凝集性」が高いとでもいうのでしょうか.それと「排他性」が強いというのとは,明らかに別の問題だと思います.「華商ネットワーク」は「排他的ではない」ということを言うために,「凝集性が高い」ことまで,マイナスに評価されることにしてしまうのは考えものだと思われるのです.

 

3 「華商ネットワーク」と「関係」「信用」

 

 もうひとつ,陳天璽さんの議論のしかたでひっかかったのが,「華商ネットワーク」の特質は儒教倫理に由来する「関係」と「信用」の重視である,という議論です.これも,囲碁の喩えでいえば,「感覚」的にはあたっているのでしょうが,実証というためには「比較」をしてほしかったと思うのです.

 陳天璽さんは,ある華商のインタビューでの言葉,「華商のビジネスはしばしば個人的な関係から発展したものである」という言葉をひき,「それは華商のビジネスが契約よりも『信用(xinyong)』を重んじるということと無関係ではない.『信用』が最も大切な規範であり,それによって『関係』が形成されてゆく」と解説しています(165頁).そして,「筆者が行ったサーベイ調査からもビジネス・パートナーを選ぶ際『信用』を最も重んじるという回答が多数を占めた.インタビューにおいても『信用』の重要性を強調した華商が多かった」(170頁)と述べています.

 その「サーベイ調査」というか「アンケート調査」の箇所を見てみますと,「信用」うんぬんというのは「パートナーシップ」の項目ではなく,「ビジネスでの価値規範」の項目に出てきます.「ビジネスの際最も重視するものは何か,という問いに対しての回答結果〔によれば〕,『信用』を最も大切にするという回答が62.8%に上った.前節で見られた『信用』が華商にとって重要な価値であるという説は,今回の調査からも立証された.一方,利益が最も大切であるという者は10.3%で意外に少なかった.さらに,強いコネや『関係』が決め手となると答えた者は9.0%であった」(198頁).

 インタビューで「信用」の重要性を強調した華商が多かったとか,アンケート調査で「信用」を選択した華商が多かったということだけでは,「華商ネットワーク」の特徴は「信用」重視にある,とは言えません.最近,日本で物議をかもした「雪印食品」の経営者たちであっても,ビジネスの際もっとも重視するのは「信用」ですか,「利益」ですか,と問われれば,「もちろん信用第一です」と答えるに決まっているのだから.

 実際,陳天璽さん自身,「〔香港は〕いかにして儲けるかということに非常に関心が持たれている傾向があり,利益獲得のため時間を有効に利用することが重視される.したがって,アンケート調査のために時間を割くことを惜しむ華商がいたのは事実である.また,インタビューの際に,『このように君と話している時間を他の顧客との商談に利用すれば,どれだけの金が儲かったか分からない.事実その方が自分には有益であるが……』とはっきりビジネス界の現実的側面を吐露する華商……がいたのも確かである」(188頁)と書いています.

 ですから,「華商ネットワーク」の特徴が「信用」重視にあることを立証するためには,同様のアンケート調査を,華商以外のビジネス経営者たちにも実施して,同一のアンケート調査に対して,統計的に有意な差をもって「華商」たちが「信用」と回答する割合が高かった,というデータを示す必要があります.

 これを書いているときに,たまたま,友人の桜井哲夫さんが『アメリカはなぜ嫌われるのか』という新書を贈ってくれました.そこに,こういう記述がありました.

 

 アメリカの社会学者シーモア・M・リプセットが,例外的な国アメリカについて検証してゆく著作(『アメリカ例外論』,1996年.上坂昇・金重絋訳,明石書店,1999年)のなかで,日米の差異について論じて〔います〕.……

 1986年から1993年の間に,アメリカ,カナダ,イギリス,フランス,ドイツ,日本の管理職15千名を対象にして調査が行われたのですが,この調査からみると,アメリカと日本の管理職の間に最も大きな違いが見られました.いくつかその質問をみてみましょう.

1)企業の適切な目標は何か

 選択肢の(a)「企業の唯一の真の目標は利益を上げることである」を選んだ管理職の比率は,

  アメリカ 40パーセント   日本 8パーセント

  (参考・フランス 16パーセント,ドイツ 24パーセント)(桜井 2002: 185-6

 

 桜井さんのこの記述だけでは「利益」以外に何が選択肢として用意されていたのかはわかりませんが,とにかく,こういった先行調査研究と同一のワーディングを用い,同一の回答選択肢でもって,一定のサンプル数による調査をおこなって比較するのでないと,華商の特徴はかくかくしかじかであると実証したことにはならないのだと思います.

 あるいは,もうひとつの方法は,インタビュー調査などによって,質的に違いをおさえることでしょう.それぞれ異口同音に「信用第一」と言いながらも,「信用するときの根拠は何か」を問うていけば,華商の人たちの答えと,日本人ビジネスマンの答えと,アメリカ人のビジネスマンの答えと……,違いがあらわになってくる可能性はあるのではないかと思われます.たとえば,思いつくままに回答例をあげれば,「親しいあいだがらだから信用する」とか,「約束をきちんと守る人だから信用する」とか…….この場合でも,華商だけにインタビューしても,華商の特徴を取り出すことは難しいはずです.

 

4 アイデンティティの多様性

 

 アイデンティティの多様性の問題ですが,陳天璽さん自身が,「第6 華商ネットワークの脆弱性」で触れておられます.「華人といっても移民背景や出身,世代などの違いによってさまざまなタイプに分けることができ,しかも,イデオロギーや利益をめぐって華人同士の間で争いや分裂などは数知れず起こってきた」(273頁)と.

 

 華人の移民の波は大きく分けて3つあり,そして背景や特徴をもとに4つのグループに分けることができる.第1期である20世紀初期に移民したグループは,広東省や福建省など沿岸地域から出稼ぎとして海外に渡り,当初,労働者などとして経済活動していた者が主である.……高等教育を受けておらず,必ずしも外国語が堪能ではなかった彼らは,異国の地で生活するため,意志【→意思】疎通が容易な同郷人や華人系同士で協力し合った.その結果,この時期に多くの華人コミュニティが形成された.……20世紀初頭に移民した第一世代は「老華僑」と呼ばれている.

 第2のグループは,第二次世界大戦以後,特に1960年代,1970年代に香港や台湾より外国に移住した者達である.……冷戦体制のもと……この時期に中国大陸から移民が出ることはなかった.……このグループに属する人々は,労働者として海外に渡った第一世代と違って比較的裕福な者が多く,しばしば,留学などの理由で海外に出て行った.……そして,この時期のグループの移出先は,アメリカやカナダ,日本などいわゆる先進国であった.彼らは卒業後,就職や起業などさまざまな理由によってその国に居残ることになり,華人移民の第二代目を形作ることになった.このグループは,前に挙げた「老華僑」のサークルに参入するというよりも,それ以外に自分達のネットワークを形成している.……なお,「老華僑」の子孫の二世,三世などは,教育水準,社会関係などにおいて,こうした第2グループと類似した性質を持っている.しかし,二世,三世に関しては,特に居住国生まれで自ら移民経験を持たない場合(アメリカ,カナダ出身者)は,多元的なアイデンティティは持ちながらも,居住国に同化している傾向が強い.

 第3のグループは,改革開放以後,中国大陸から海外に渡った人々で形成され,1980年代以後から急速に拡大している.……〔彼ら/彼女らは〕これまでの華僑と区別され「新華僑」や「新移民」と呼ばれている.このグループは,留学や修学のために海外に出ている者と,かつての出稼ぎのように経済的な目的のために移民している者と大きく2つに分けられる.なお,前者はしばしば,北京や上海など大都市出身者であり,多くの場合,官僚の子弟【→子ども】や裕福な家庭背景を持った者であるのが特徴である.こうした,いわゆるエリート層は,すでに居住国にあるチャイナタウンなどの華人コミュニティに参入するよりも居住国の主流社会と融合することに積極的であり,また,彼らの知識を活用し,新聞や雑誌などを出版することを通して情報交換を行い,新移民同士でネットワークを形成している.これに対して,出稼ぎなど労働者として移民した者に関しては福建省の出身者が目立っている.彼らは教育水準,言語能力,場合によっては法的な理由などから,直接居住国の主流社会に参入することはできず,現地の華人コミュニティに頼る傾向がある.また,なかには「蛇頭(セートゥ)(スネークヘッド:不法労働斡旋業者)」を通じて外国に渡り,不法に海外に滞在している者もいる.……そうした新移民に対する「老華僑」の態度は,ある意味では冷淡であ〔る〕.……

 第4のグループは,ベトナム,カンボジア,ラオス,タイなど,東南アジアに居住していた華人が再移民しているケースである.こうした人々は,ベトナム戦争などによる政治的・経済的な難民として,もしくは排華運動など困難な状態から逃れるためにインドシナから流出したもの【→者】が多い.彼らは再移民した後,華人コミュニティに参入する例は多いが,そのなかで独自のネットワークを構築するという特徴を持っている.つまり,チャイナタウンなどの一角にベトナム系華人が集まり,サブ・エスニックな色彩を醸し出すという例はよく見られる.……こうしたグループは,華人であっても東南アジアを経由した経験などから,より多元的で混合されたアイデンティティを持っている.(274-6頁)

 

 華僑・華人と一口に言っても,移民/再移民の時期などによっていくつものグループに分かれていることが,手際よく記述されています.おそらく,ここでは,各グループの特徴を簡明に記述するためにかなりの単純化がなされているのだろうと思われます.たとえば,「老華僑」の子孫の二世,三世は「多元的なアイデンティティは持ちながらも,居住国に同化している傾向が強い」と述べられていますが,きっと,彼ら/彼女らのあいだでもじつに多様なアイデンティティの錯綜という事態がみられるのではないかと思われます.こういうのも,たまたま,ぼくが在日韓国・朝鮮人の3世たちを中心とした若い世代の人たちを対象とした聞き取り調査をしたところ,アイデンティティの多様性が観察されたわけで,そういうことは華僑・華人のばあいにもありうるのではないかと思うからです.

 そうそう,ちょっと疑問なのは,第3のグループの「新移民」について,陳天璽さんは,「留学や修学のために海外に出ている者と,かつての出稼ぎのように経済的な目的のために移民している者と大きく2つに分けられる」と書いておられますが,日本を舞台にみるかぎり,かなり両者は連続的なような気もするのですが…….アメリカのばあいには,両者は「大きく2つに分けられる」のでしょうか.

 さて,本の最後のほうになって,「華人といっても移民背景や出身,世代などの違いによってさまざまなタイプに分けることができ,しかも,イデオロギーや利益をめぐって華人同士の間で争いや分裂などは数知れず起こってきた」と言われると,「第4 華商の価値観とビジネスの特徴」で,儒教思想,儒教倫理をもちだされて,華商のものの考え方の特徴はかくかくしかじかだ,というかたちでの議論がなされたことに,ぼくなどは,ちょっとした戸惑いをおぼえてしまいます.

 ぼくなどのように,生活史の聞き取りをつみかさねることによって,研究対象とする人びとの生きざまを,できるだけトータルに再現してみたいと考える者にとっては,儒教思想といったものでいわば上から網をかけるような説明の仕方よりも,華僑・華人そして華商ひとりひとりの聞き取りの資料をていねいに呈示しながら,「華人ディアスポラ」がどんな状況に置かれているのかを示し,そして,彼ら/彼女らの多様なアイデンティティを具体的に描き出すことで,全体的な「華人ディアスポラ」像を再現してくれるほうが,なじみやすいところがあります.

 

[注]

 1) 『華人のディアスポラ』が,350頁で6,300円という割高の定価になったのは,研究成果公開促進費という名の科学研究費補助金(いわゆる出版助成金)をもらったからでしょう.なぜ出版助成金をもらうとかえって高くなってしまうのかというと,“出版助成というのは,学術水準が高い研究成果であるが,商業ベースには乗りにくいものに対してなされるものである”ということがまことしやかに言われていて,商業ベースに乗らない証として出版社は初版の印刷部数を少なくするわけです.本の定価をいちばん大きく左右するのは,初版の印刷部数です.初版2,000部だったら定価2,000円で製作できる本でも,初版が1,000部だったら定価は倍近くにはねあがってしまいます.そして,結果的にも,値段が高いために(それだけではないかもしれませんが)実際に売れないということが実証されることになります.――新書が安いのは,初版の発行部数が,たとえば中公新書だと20,000部だからです.ハードカバーであるか,ソフトカバーであるかといったことは,製作費でいうとせいぜい100円単位のちがいでしかないはずです.

 ぼくが金明秀さんとの共著で東京大学出版会から出してもらった『在日韓国人青年の生活と意識』(1997)にしても,科研費の出版助成をもらったために――編集部は「これは調査もので,そんなに売れないから,出版助成をとるのが出版の条件だ」と言った――,226頁で5,800円となってしまいました.自分では3,000円ぐらいが適正価格だと思いました.出版会は,初版1,000部と2500部を同時に刷り,その後,3刷を500部増刷しましたから,適正な値段であればもっと売れたのではないかと思います.

 ぼくらの本のときの出版助成金は100万円でした.助成金はどこに行ってしまったのでしょうか.それは,本がほとんどまったく売れなくても出版社が損をしない保証金のようなものになってしまっていると考えておけばまちがいありません.そして,高額図書ですから,多少売れれば,出版社は儲かる仕組みになっています.――著者はといえば,文部省(ぼくらのときは文部省が直接仕切っていました)が“初版にかんしては著者の印税はなしとする”という規則をきめていますので,まったく得にならないわけです.

 さて,なぜ,こんなことを注記してきたのかというと,若い研究者の人たちに,本を出すということの意味を考えなおしてほしいからです.――一昔前とはちがって,日本で研究者として生き残るのに博士の学位の取得がほぼ必要条件となってきました.博士号が取れれば,その論文を本として出版したいと思うのは人情でしょう.出版社はといえば,出版助成金をもらえば絶対損をしませんから,「博士論文を本にしませんか」と誘ってくるはずです.分厚い博士論文は,出版助成を申請するのにおあつらえむきなのです.

 ぼくがみなさんにお勧めしたいのは,せいぜい250頁程度におさまるぐらいの手軽な単行本,あるいは新書版の分量に,分厚い博士論文をリライトしたうえで,どしどし,出版に挑戦することです.

 いや,ほんとうに言いたいことは,分量の問題ではありません.自分の書いたものを誰に読んでもらいたいか,ということが最大の問題です.博士論文は,どうしても,審査委員の先生たちの評価を気にして書くことになってしまうはずです.でも,社会学関係の本でいうと,理論研究の本だとちょっと事情は異なるかもしれませんが,なにか具体的な社会問題を扱った研究であれば,読んでもらいたいのは,その問題の当事者たちでしょうし,あるいは,若い学生たちでしょう.問題の当事者に読んでもらう,若い学生たちに読んでもらうということを考えたとき,博士論文には“余分なもの”がいっぱい詰まっているのではないでしょうか.それらをバサッと削り,ほんとうに自分が言いたいことだけで,スッキリとした内容の本をつくれば,不当に高い定価の本にされることもないし,より多くの人に読んでもらえる可能性が高まるということになると思うのです.

 出版助成の科研費をもらうと定価が高くならざるをえないと思い込んでいましたが,出版社しだいというか,出版社の経営方針が良心的かどうかによるということのようです.じつは,数日前に,飯田剛史さんに『在日コリアンの宗教と祭り――民族と宗教の社会学』(世界思想社,2002)を贈ってもらいました.「本書の出版には,学術振興会科学研究費(研究成果公開促進費)の助成を受けた」と記されていましたが,じつに,370頁で定価3,600円でした.これなら,文字通りの「出版助成」であって,「出版社助成」ではないといえると思います.

 2) 以下では『華人のディアスポラ』からの引用注は頁数のみを記載することにします.

 3) ただし,読んでいない人のために,目次構成を紹介しておきましょう.

 

序 章 華商をめぐる世界

 第1節 脱国家的な主体(アクター)への視点

 第2節 問題の所在

 第3節 本書の構成

 

1章 華僑・華人及び華商研究の視座

 第1節 用語の定義と理論的概念

 第2節 華人アイデンティティ研究の現段階

 第3節 華商ネットワーク研究の現段階

 第4節 虹のメタファー

 

2章 華商のネットワークとアイデンティティの歴史的変遷

 第1節 海外移住の歴史と原因

 第2節 東南アジア華商をめぐる国際環境

 第3節 グローバル化する華商のネットワークとアイデンティティ

 

3章 ディアスポラとグローバリゼーション

 第1節 脱国家的な視点

 第2節 華僑・華人とディアスポラ

 第3節 グローバリゼーション――脱国家的な動き

 第4節 ディアスポラをめぐる国際環境

 

4章 華商の価値観とビジネスの特徴

 第1節 儒教文明と華商の経済活動

 第2節 華商に内在した倫理と合理性

 第3節 グローバリゼーションにおける儒教倫理の役割

 第4節 アンケート調査に見る華商の現状と実体【→実態】

 

5章 ケース・スタディーに見る華商の現実

 第1節 ミクロレベル

 第2節 マクロレベル

 第3節 時間と空間を超えるネットワーク

 

6章 華商ネットワークの脆弱性

 第1節 外的な要因――華商のイメージと現実

 第2節 内的な要因――華人コミュニティに内在する分散性

 

終 章 華商ネットワークの役割と限界

 第1節 虹の架け橋か,潜在的な部外者か

 第2節 華商ネットワークを見る目

 第3節 結論――グローバル社会における華人ディアスポラ

 4) 陳天璽さんが筑波大学大学院に入学して,この調査研究をはじめたのが1994年.ハーバード大学に留学したのが1997年から2000年.本書のもととなった論文「華商のネットワークとアイデンティティ」で筑波大学から博士号を取得したのが2000年.

 「虹のメタファー」のアイディアを得たのは,少なくとも1997年以降ですよね.ちょっと気になったのは,陳天璽さんが香港,シンガポール,マレーシアで「華商」に対しておこなったアンケート調査(350部を配布して165部の有効回答をえたという)の実施時期が19953月から5月だという点です(185頁).――注では,実施時期は「19943月より5月」となっています(217頁).どちらかが間違っています.――ぼくは,質問紙票による数量的な調査というのは,参与観察や聞き取り調査などの質的なアプローチによって,解明したい問題の構造がほぼ手にとるように明らかになった時点でおこなうのが望ましいと考えています.数量的な調査の出来を決めるのは,「調査票」の出来いかんですから.だから,ぼくは,学部学生の卒業論文では,質問紙調査は認めないことにしているほどです(福岡 2000: 92).

 すんでしまったことは仕方ありませんが,陳天璽さんのばあいでいうと,「虹のメタファー」のアイディア以前と以後とで,インタビューでの問いがどう変わったのか,に興味があります.

 

[文献]

陳天璽,2001,『華人ディアスポラ――華商のネットワークとアイデンティティ』明石書店.

福岡安則,2000,『聞き取りの技法――〈社会学する〉ことへの招待』創土社.

桜井哲夫,2002,『アメリカはなぜ嫌われるのか』筑摩書房.