研究課題:人間社会の制度的特性の進化に関する計算手法による研究

 

 社会科学のモデリングに計算手法(コンピュータシミュレーション)を用いる試みは1960年頃に始まり、1990年以後には本格的な展開をみた。計算手法の適用は研究集団ごとに、Agent-based modeling Artificial SocietiesDAI アプローチ、Microsimulation といった標語のもとに推進されている。計算手法は現在、社会学、社会心理学、政治学、経済学、経営学などの分野で一定の地位を占めつつある。その一方で、表面的なお題目に酔いしれる時期が過ぎ去った現在、計算手法によって実質的に意味のある知見を確保することが課題となっている。意味のある知見とは既存のディシプリンの理論的視座との関係が明確である知見を意味し、何よりも重要なのはそうした理論的視座であるとわれわれは考えている。

 本研究の目的は、人間社会の基底的な制度的特性(社会秩序)がいかなる根拠から創発するかを計算手法によって解明することにある。ここに「人間社会の基底的な制度的特性」と想定するのは、利他性・協力性、婚姻制度を含む親族組織、公共財・共有資源の管理能力、神話の保持、受容と排除(inclusion/exclusion)のルール、紛争管理、階層性の許容、権力の存在、分業、などを指している。こうした社会の特性は「所与の社会的事実」と考えられながら、その成立根拠を問う方法論が進化的な計算手法の出現以前には存在しなかった。

 本研究は直接の考察対象たる社会に、単純で小規模な狩猟採集社会を選ぶ。その理由は現代社会が再現対象として複雑すぎるだけではない。人類はそのほとんどの期間を狩猟採集的な小規模社会で過ごし、その期間における適応の結果として社会の基底的特性や人間の行動特性が「進化」したと理解できるからである。

@ 何をどこまで明らかにするか

 以上の研究目的を実現するため、本研究は次の3つの作業目標を設定している。

 第1の目標は本研究が計算実験の対象とする小規模社会の特性を、主に文化人類学/民族学的な研究文献をサーヴェイすることを通して整理・確定することである。狩猟採集社会に関する研究の蓄積が多い中央・南アフリカの狩猟採集社会に関する研究を中心に、本研究の目的に絞って文献サーヴェイを行う。同時に、社会とともに進化した人間特性(対人的特性を含む)に関する知見を、進化心理学、動物行動学の文献を通して整理する。

 第2の目標はそうした社会特性の創発を再現するような計算モデルを Agent-based に構築し、進化型のシミュレーションを実施することである。特に再現を目指す社会特性とは、親族組織、受容と排除(inclusion/exclusion)のルール、階層性、権力、分業、である。それぞれの特性は、一定範囲の条件の組の下で、条件による変異を蒙るものの、計算上再現できるものと見込んでいる。

 第3の目標得られた結果の implications を吟味することである。この吟味は次の2つを焦点とする。1つは文明論的な視点から現代文明の進化史における位置づけを考察することである。現代文明ないし社会は「国家」と「市場」という「近代的」制度機構の上に成り立つけれども、他方で本研究が対象とする基底的特性にも依存している。基底的特性と近代的制度機構とはある面では相互依存的、別の面では阻害的な関係があるだろう。両者の相互関係は従来の社会科学の中で明示的に議論されたことはなく、本研究が考察の対象としたいのはまさにその点である。もう1つの焦点は、本研究でも念頭に置く複雑適応系というアイディアの社会科学における位置づけを科学哲学の上で整理することである。複雑適応系が提唱されて既に時間が経っているものの、その社会科学への位置づけはいまだ明確ではない。

A 本研究の特色および予想される結果

 第1の特色は特定の理論的視点をもつこと、すなわち、社会学/社会心理学/文化人類学の中で培われた交換理論(Exchange Theory)に基づいてモデル構築することである。適応のためのエージェントはある種の交換圏ないし利他的な社会圏を進化させ、その交換圏を前提にさまざまな制度的特性が出現するというシナリオをわれわれは描いており、このシナリオはある程度、われわれの研究でも確認されている。

 第2の特色は社会秩序と人間の行動特性の双対性に着目し、従って進化心理学の課題を視野に入れることである。われわれの想定では、従来の進化心理学は社会秩序要因の導入が不可欠であることが判明するだろう。

 第3の特色はわれわれが明確な文理融合の方向を目指していることである。われわれの目標は単に計算実験を完了するだけでなく、その現代的な意味、科学哲学上の含意にも及んでいる。

B 内外の関連する研究における位置づけ

 冒頭に記したごとく Agent-based の社会のシミュレーションを行う試みは内外の諸分野で見られるため、本研究の成果は一定の audience を得るものと思う。他の研究に対する本研究の独自性は上記Aのごとくである。