04/04/23更新
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0.荒川の流れを求めて
 荒川は甲武信ケ岳の真ノ沢に源を発し、120近くある支川の水を集めながら埼玉県の中央部を流れ、東京都の東部を抜けて東京湾に注ぎ込む延長約169km、流域面積2940平方kmの県内最大の河川です。この荒川は降水があると増水し、激しい流れに変わることは、「荒川」という名称がよく表現しているといえます。しかし埼玉県にとっては荒川は「母なる川」であり、この荒川から多くの恩恵に預かっているのも事実です。
  荒川の流れは現代までに人為的に幾度も変更され、江戸時代以前は現在の元荒川の流れだったものが、江戸時代には入間川に接続され、明治時代以降は放水路が作られ、それまでの荒川が隅田川、新しくできた放水路が荒川と呼ばれるようになったほか、蛇行する河道を直線にする工事などが行われています。
羽根倉橋からの荒川 (浦和博物館所蔵)




T.羽根倉河岸の賑わいいずこ
 江戸に隣接する埼玉県では、江戸の台所を潤すために水の路を使った物流=舟運が発達し、荒川流域にも多くの河岸場がありました。今ではそのほとんどが跡形もなくなってしまい、当時の賑わいを知ることはできませんが、その一つ、「羽根倉河岸」が現在の羽根倉橋のすぐ近くにあり、多くの物資や商店で賑わっていたことが残された史料から伺うことが出来ます。
  「羽根倉河岸」は江戸時代中頃には存在したと考えられ、文政年間の古文書には「武州 羽根倉川岸 問七」と記された印鑑が押されています。明治時代には172坪の敷地を有し、小松権兵衛・宮川七右衛門が積問屋として活躍し、数多くある河岸場の中でも平方河岸(上尾市)や戸田河岸(戸田市)に次ぐ輸出・輸入量を誇っていたようです。




U.荒川流域の文化をさぐる
 かつての荒川の流れ(入間川が流れる以前は、荒川がこの地区を流れていたようです)によって形成された肥沃な大地には弥生時代から人々が棲みつき、自然堤防の上に住居を構え、後背湿地を水田として利用するようになりました。後には多くの古墳が作られ、古代郡家郷の故地にも比定されています。瓦を屋根に乗せた建造物も建てられ、古代仏や平安時代の蔵骨器も発見されるなど、仏教文化もいち早く取り入れています。
 これらの先進的な文化をいち早く受け入れる素地として、荒川の氾濫により大地が肥沃だったということがあげられます。そういえば、下流の田島ケ原のサクラソウ自生地も荒川の氾濫がもたらした土質がその生育には欠かせないのです。この地域の文化や自然には、荒川は切っても切れない関係なのです。
▲大久保領家出土蔵骨器(浦和博物館所蔵)




V.川を渡る
 昭和13年に下流に架かる秋ケ瀬橋の古材を再利用した木の橋が架かるまで、羽根倉には橋はありませんでした。昭和29年に新設の冠水橋ができ、昭和48年になって現在の羽根倉橋が完成します。橋が架けられる以前は渡船による交通しかなく、現在の羽根倉橋近くのところにあった「羽根倉の渡し」が利用されていました。
 
鎌倉時代にはここを鎌倉街道が通り、正平7年(1352)正月に北朝方の高麗経澄と南朝方の難波田九郎三郎が「羽禰蔵」(=羽根倉)で合戦したことが記されています。鎌倉へ上る高麗経澄がここを通ったということであり、川を渡る、川を渡らせるということは、今も昔も大きな意味を持っていたことになるのです。
旧羽根倉橋写真パネル(浦和博物館所蔵)




W.荒川によって運ばれし幾多の品々
 荒川沿いの寺院にある仏像などには、荒川の洪水で流されてきたもの、上流から荒川を伝わって流れてきたものなどという伝承が結構残っています。そういえば、中世の供養塔である板石塔婆の石材は緑泥片岩ですが、その産地は秩父の長瀞で、埼玉や東京の板石塔婆のほとんどがここから荒川の流れを伝わって運ばれてきたものでしょう。荒川は、文化の伝播の担い手でもあったのです。
 上流から運ばれるものだけではなく、荒川を遡るものもあります。どうやら荒川に安住の地を定めたらしいアザラシの「タマちゃん」や、小学生の年中行事化した鮭の赤ちゃんの放流、タンカーの遡行は、荒川が東京湾とつながっている事を思い起こさせるものです。




X.荒川との戦い
 荒川流域に暮らす人々にとって、水害を起こす荒川は厄介な存在でした。まさに「戦い」だったはずです。3900人もの死者を出した寛保2年(1742)の洪水や、安政6年(1859)の洪水、明治以降最大の被害を出した明治43年(1910)の洪水など過去に何度も大きな氾濫を繰り返した荒川の存在が、「かすみ堤」「横堤」「輪中堤」「水塚」などの住民の智恵となって現われています。それでも一端洪水が起きれば、人々は先祖伝来の家や屋敷を放棄して、一時退避することを余儀なくされます。民家の軒先に吊るされている「水害船」はその証拠です。
 現在では、連続堤防や調節池、スーパー堤防、水門・排水機場などの水害を防ぐ手段や、洪水が起きてもあまり被害が出ないような機能を持つ施設が作られるようになってきていますが、荒川との戦いはまだまだ続くことでしょう。
水塚の家写真パネル(浦和博物館所蔵)

水害船(岩井恒一氏所蔵) 圦樋絵図(木内家文書2199、浦和博物館所蔵)




U.荒川流域の文化をさぐる
 荒川の治水を生涯の事業としたのが治水翁と称された斎藤祐美(さいとうゆうび)です。氏の出生地は荒川沿岸で(足立郡飯田村新田、現さいたま市西区)、度々の洪水に苦しみましたが、献身的な努力で荒川改修が完成しました。
 神田忠三九(かんだちゅうさく)は埼玉県内で最初に陸田での稲の収穫に成功した人。陸田は、洪水で苦しむ反面、日照りが続くと旱魃に悩まされる大久保地区の苦肉の策でもあったわけです。
 天下無敵神刀流の開祖日比野雷風(ひびのらいふう)は鹿児島出身ですが、一時期大久保地区に居を構えていました。東郷平八郎とも親交があり、鶴見・総持寺にある墓石の碑文は、徳富蘇峰の筆になるものです。
▲斎藤治水翁彰功碑写真パネル(浦和博物館所蔵)



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