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![]() 永井哲也
![]() 2.秩父織物 2−1.秩父織物の歴史 秩父は四方を山々に囲まれ、平坦地が少ない場所である。そのため主食の米などの自給自足が難しい土地であり、古くから養蚕業が盛んな地域であった。江戸時代になると、貨幣経済が発展し、現金収入の副業として、養蚕−製糸−絹織物という家内制手工業の形で多くの農家に普及していった。また織物の普及と同時にたくさんの市が立ち、絹の売買が行われた。さらに経済・流通の発展に伴って江戸からの商人も集まり、絹織物は秩父の特産物として主要な現金収入となり、生活を支える重要な役割を果たすことになる。 その後明治28年には絹織物組合ができ、生産方式にも進歩を見ることができるようになった。明治の初期までは居座り機によっての製織だったが、その後高機(たかはた)に変わった。高機の普及により絹織物が無地物から縞物を織ることが出来るようになったことが、その後の秩父銘仙を生み出す要因となった。また当時生糸が貴重な輸出商品となっていた。そのため秩父織物には輸出商品にならないような玉糸を使い始め、そのことがも秩父銘仙を生み出すきっかけとなった。
2−2.秩父銘仙 秩父織物組合は明治41年に『解(ほぐし)模様銘仙』を創案し、解捺染という染色技術の改善、流行動向の把握等に努め、秩父の絹織物は「秩父銘仙」として大正から昭和初期にかけて女性たちの実用着、おしゃれ着として全国的な人気を博していくことになる。 解銘仙も縞銘仙も染色織物で裏表がないのが特徴であり、たとえ表が色あせても裏を使って仕立て直しが出来る利点があり、大変な人気を博した。 秩父銘仙が人気を博したもう一つの理由として斬新かつ大胆なデザインにあった。特に昭和初期の特徴はまさにモダンで、海外のデザインや日本の当時の画家のタマゴを採用することもあった。 そして秩父銘仙は銀座の街を闊歩するモダンガールやカフェの女給、女学生の必須アイテムとなっていったのである。 2−3.戦後から現代にかけての秩父織物産業 太平洋戦争の荒廃から立ち直り、昭和40年代には秩父銘仙の最盛期が訪れる。当時の経済状況も手伝って「ガチャマン」(ガチャっと一折すれば、1万円の収入が得られるという意味)という言葉が出来るほど、織物産業は盛んであった。しかしその後、年々工場数は減少していくこととなる(表1)。 理由として日本人が和服から洋服を着るようになったこと、安価な化学繊維が流入してきたこと、その安価な化学繊維に対抗するために、本物の絹でなく、レーヨンや人絹を代わりに使用してコストダウンを図ったことにより、秩父織物自体の質を低下させてしまったことなどが、秩父織物が衰退してしまった原因として挙げられる。また今日では斬新なデザインができなくなったことも要因と挙げられよう。 そのような状況の中で、平成に入って、静かな銘仙ブームが起こった。これは全国の家庭のタンスに眠っている秩父銘仙を回収し、改めて現代風にアレンジするなど秩父銘仙の復興を図ろうとしたのである。秩父の観光に多少寄与したものの、しかし、それはあくまで秩父銘仙の古着を扱っているに過ぎない。そのため織物産業にはほとんど還元されず、復興にむけた著しい成果をあげることはできなかった。このようなイベントはいまでも年数回行われている。 表1.織物産業の変化
データ:昭和41年〜61年 秩父織物構造改善商工組合 昭和62年〜平成12年 秩父織物商工組合
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